エレミヤ書講解

13.エレミヤ書7章16節-28節『祭儀の誤用』

7章1節から8章3節までには、祭儀という共通の主題において互いに関連する様々なエレミヤの言葉がまとめられています。エレミヤは、神殿での説教において、シロの破壊について語ったため(7章1-15節)、その説教を強制的に中断させられたとされていますから(26章)、7章16節以下は神殿説教の続きであるとは考えられません。特に、16-20節はヤハウェとエレミヤとの対話の形になっています。それゆえ、7章16-8章3節は、祭儀の誤用に対する預言として、編集者によって一纏めにされたのだと思われます。

エレミヤは、ここで、「あなたはこの民のために祈ってはならない。」と主から命じられていますが、エレミヤは同じ命令を繰り返し受けています(11:14、14:11,12)。とりなしの祈りは主の御旨を告げることと合わせて預言者の重要な務めの一つであったのに、エレミヤはその活動を禁止されたのです。エレミヤほど繰り返し執り成しの祈りを禁止された預言者はいません。エレミヤは、民との間にあって民との連帯、絆を大切にし、共感あふれる生き方をし、どんな時にもその連帯の中に生きることを預言者として必須の生き方であると考えていました。エレミヤはただ神の側に立って、高いところから審きを語ればよいと考えていたのではありません。一方で審きを語りつつ、他方、民の罪をも自らの問題として引受けて、執り成しの祈りをすることは預言者の重要なつとめであり、正常な姿であると考えていました。それだけに、民のために祈ることを放棄せよ、という主の命令が出されることは、エレミヤにとって耐え難いものであると同時に、民の罪をもはや赦されないというヤハウエの審きの不可避性を物語るものであります。
しかし、この深い連帯を犠牲にすることは、エレミヤを神の側に立たせるためになされた要求でありました。民の祭儀の誤用の罪は、神の聖性と真実を破壊するものであったからです。

その罪とは、「天の女王」(18節)に捧げられた祭儀行為にありました。「天の女王」とは、バビロニアの女神イシュタルのことです。この「天の女王」の祭儀は、おそらくマナセ王の時代にイスラエルの中に広まって行ったと思われます。ヨシヤ王の神殿祭儀の改革の際にいったん廃止されましたが、ヨシヤの死後、エホヤキム王の時代に、ヨシヤの祭儀改革が実質的に意義を失ってしまったときに、再び人々の間で私的にはじめられました。

民は、子供までも動員し、家族全員が、異教の愛の母神イシュタルの祭儀に没頭していました。豊穰の女神としての母神祭儀は44章15節以下によれば、主として女たちによって執り行われるものとされています。「天の女王」の象徴は三日月や金星であり、この「天の女王」イシュタルへの祭儀に用いられた焼菓子の供え物は、44章19節によればこの女神の模像として用いられています。それゆえ、これは十戒の第一戒を破る背信的な罪でありました。

しかし、民は「自らの恥によって自らを怒らせているのではないか」(19節)といわれ、自分が犯すその罪によって、自らを損なうことになるといわれています。自ら犯した罪によって神の怒りを買い、もはや救いようのない破局を国全体に惹き起こすに及んで、自分たちが望んだこととは全く逆の結果を自ら招くことになるということを、「恥じ入って」知らねばならないと言われています。

20節において、神の怒りは、「人間、家畜、野の木、地の実りに注がれる。それは燃え上がり、消えることはない。」という形で表わされると述べられています。その供儀の誤用に対する批判は、21-28節において展開されていますが、21節において、「お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい」と、供儀行為全体に対する辛辣な批判が語られています。ホセア書8章13節において「わたしへの贈り物としていけにえをささげるが、その肉を食べるのは彼らだ」といわれているように、このような供儀行為は、神とおよそ関係のない、物質的飲食に等しい世俗行為、と見なされています。6章20節同様、エレミヤはここでも、供儀による礼拝の中にヤハウェ宗教とは異質な、人間的な宗教の本質を洞察しています。たとえそれがヤハウェ祭儀に取り込まれ、祭司や民衆によって次第に高い意義と評価を与えられたとしても、それはヤハウェ宗教とは別の根から出たものであるからです。

この点、わたしたちの礼拝や伝道においても考えなければならない大切なことが教えられています。人々の気を引くためにするイベント的な試みには、キリスト教の礼拝と異質な異教的な祭りの精神から出たものが多くあります。それを取り入れて伝道に用いることによって、キリスト教そのものが異教化していく危険性があります。教会が御言葉に立たず、人間的な手段で礼拝や伝道を考え、そこに表面的な喜びや生き生きした信仰の表現を追求することは、所詮、人間の考案した宗教、偶像の喜びの追求でしかないのです。エレミヤはそのことを厳しく批判しているのです。
そして、エレミヤはこの判定を、はっきりとした契約信仰の伝統に立っておこなっています。エレミヤは供儀による礼拝に対する評価において、他の預言者や、詩篇などと共通の基盤の上に立っています。詩編40篇7節には次のように述べられています。

あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず
焼き尽くす供え物も
罪の代償の供え物も求めず
ただ、わたしの耳を開いてくださいました。

エレミヤは、アモス同様、ヤハウェ祭儀の重要な前提である救済史的な出エジプト伝承に立って語っています。ヤハウェは出エジプトの際、先祖たちに、「わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない」(22節)、と言われています。このことにおいてエレミヤが言おうとしていることは、契約の書や申命記にある供儀規定は、契約の祝祭伝承の元々の枠の中にはなかったということです。つまり、ヤハウェの契約は供儀とは全く異なる次元で締結されたのであり、契約祭儀は供儀とは全く別の基盤に立つものであるというのです。

23節の「むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。』」という言葉は、この契約伝承の基本的な立場を語っています。それは、神の選びと救済の約束であり、しかもそれはヤハウェに対する全き信頼と服従の義務と結びついています。そこでは、民は神の御旨である御言葉に忠実に聞き従う者であるべきことが明らかにされています。この契約において前提されている神と人間との関係は、供儀に基づく宗教に見られるように、人間の側から求める、物によって媒介されるような関係ではありません。それは、供儀宗教とは全く逆の、あくまでも神から発する関係です。このことが24節において洞察されています。

25-26節に言及される「不従順の歴史」は、まさに神の救済史においては、民に向けられた神の救いの恩恵に背を向け続けてきたことが、重要な部分として語り継がれてきたのであります。この「不従順の歴史」において預言者たちは一連の神の恩恵を明らかにする役割を担うものとして登場してきたのであります。ここには、契約伝承の中に位置づけられた預言者の立場が照らし出されています。

エレミヤに向けられた27節の主の言葉は、預言者としてのエレミヤのつとめも、この民の不従順の歴史の下にあるということを予め知っておかねばならぬということを教えています。そして、そのつとめが不成功に終わったとしても、それに絶望してはならないことをエレミヤに教えています。預言者は神の命令によってなすべきこと、また経験しなければならないことにおいて、完全に神の側に立つものです。預言者は契約の祝祭における神の言葉の担い手として、その契約共同体に向かって語るものとして、神によって立てられているからです。

だから、神は預言者をその義務から解くことを致しません。民の拒絶に対しては神の審判を宣告せよ、と命じるのであります。

28節の「これは、その神、主の声に聞き従わず、懲らしめを受け入れず、その口から真実が失われ、断たれている民だ。」という主の言葉は、契約祭儀において行われる審判を示しています。預言者は、民の中に従順な態度も真実もないということを明らかにしなければならないのです。

服従と真実とは、実に、ヤハウェが契約の定めに基づいて民に要求する根本義務でありました。この根本義務を欠いた民が、契約更新の祝祭に、ヤハウェに向かって述べる自分たちは信実であったとの告白は、まことに真実を欠いた、うつろな口先だけの告白になることは明らかです。これがヤハウェの法廷の最終判決の「その口から真実が失われ、断たれている民だ!」(28節)の意味です。

主の御声に聞き従う事は、どのような犠牲にもまさる真実の神礼拝であるし、主の民としての真実を尽くす生き方であることを、この御言葉は教えています。

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