ホセア書講解

3.ホセア書2章1-3節『神の恩恵による救いへの転換』

2章は1章に直接続くものではなく、また文学的な統一を持っていない。2章はホセアの預言を集めたもので、その預言の断片は、並べられている順序と時間的な順序とが一致していない。1章の預言者物語と形式も異なっている。しかし、2章は、1章で告げられた審きと、3章の物語によって基礎付けられた救いの思想との、内的な関連が明らかにされている点で、1章と実質的な関係がある。つまりこの章は、ホセア書全体の中で、1章と3章をつなぐ橋としての役割を果たしており、4章以下とは区別される1-3章の文学的なまとまりを形成している。

2章は少なくとも五つの預言のまとまりからなる。1-3節、4-15節、16、17節、18-22節、23-25節の5つのまとまりを認めることができる。これらの預言の断片は、民の審きを通して救いへと導く、神の道を示す、神の意志を知らせるものである。その言葉の順序は、ホセアの口から語られた順序だとは到底考えられないが、時間的には3章の出来事以前のものであると考えることはできる。そして、この短い預言の一つ一つは、3章の預言者の体験との内的な関連から見て、ホセア自身の語った預言であることに疑問の余地はない。

2章1-3節の救いの預言は、2章4節以下と対立している。それは、4節以下の審きの言葉を越えて、25節へとある繋がりを作っている。

1-3節の預言の断片が示している方向は、この章の審きと警告の言葉が、それを目の見えないところで貫いている、救いのための神の教育的意思の表現、と理解すべきであるということである。

2章が、究極において神の救いが支配するとの言葉で始まっているため、1章から読み進んできた読者は、神の道の広さと、事態の驚くべき転換・展開の前に立たされて戸惑いを覚えさせられる。その意味は、終わりになって始めて完全に理解できるものである。神の福音は人間には驚くべきもの、戸惑いを覚えるものであって、人間の理解を超えた彼方にある救いであることを、後になって初めて知りうるものであることを覚えさせられるが、神の救いの支配は、人が気づかないだけで最初から語られているものでもある。ホセアの預言は、その意味で主の十字架の福音に繋がるものであることを覚えさせられる。ホセア書の読みどころはその辺にある。

2章1節は、イスラエルの子らの数を、数えることも測ることもできないほど増し加えられる、との救いの言葉をもって始められている。それは、アブラハムの召命の時に与えられた約束を想起させる。この言葉は審きが語られた後だけに、アブラハムが約束を与えられた時と同じく、人の思いも及ばぬ驚くべき神の行為を告げようとしている。神の救いの可能性は、人間の一切の思いを超えている。しかし、この神の言葉は、明らかに父祖アブラハムへの約束を拠り所にしている。父祖に与えられた約束は、イスラエルが繰り返す背信の罪のゆえに、一度はイスラエルに対する神の審きによって廃棄されてしまったかに見えたが、再び立てられたのである。

イスラエルの悔い改めの言葉を一つも聞かない時に、神の救いの約束の言葉が先立ってある。ここに希望がある。罪の悔い改めは、神の先立つ恩寵のありがたさに気づかされた、民の感謝と喜びから生み出される果実であることを、いつも覚えさせられる。

ホセアの子の名に表されている呪いは、民に移されることを示していたが、いまやその呪いの名、ロ・アンミ(わが民でない者)が「生ける神の子ら」という名に変わるということにおいて、この祝福への完全な転換が示される。救いの時には、新たな民となることに対応した新しい名が与えられるという。「わが民でない者」(ロ・アンミ)という呪いの名は「生ける神の子ら」という祝福の名となるというのである。

神を「生ける」と呼んでいるのは、バアルのような「死せる偶像」に対して用いられているのか、死を克服した神としてカナンの神々と区別しているのか、はっきりしない。いずれにせよ旧約聖書の信仰では、神は歴史の中で生きて働かれる方として理解されているから、その信仰から生まれた言葉であると言うことができるだろう。

ヤーウェは、民が新たな生命に入るのを助けることによって、生命を創造する神であることを明らかにされる。

歴史の中で新たな民が形成されるという宗教的な側面と意義は、この「生ける神」ヤーウェによって、計り知れない大きな広がりを持っている。預言者ホセアが生きた時代は、ユダとイスラエルという二つの兄弟民族が互いに争いあっていた。その争い合う兄弟民族が、再び一緒になって共同の指導者を立てることになる、というのが2節の預言の内容である。しかし、ここでホセアは、二つの国を統一する王が出現する、と言っているのでない。なぜなら、ホセアは王国の発展が誤りであると考えているからである。ここで言う「一人の頭」とは、ユダ王国に見られるダビデのような国を統一する賜物にたけた王のことではなく、荒野の時代における契約の民の指導者のことが考えられている。

それゆえ、「その地から上ってくる」という言葉は、第二の出エジプトが考えられている。8章13節、9章3節によれば、イスラエルは再びエジプトに帰るはずだからである。このことは、2章16、17節によっても、民は荒野で「エジプトから上ってきた日のように」再生すると言われているので確実に言える。

イスラエルの歴史の始めを特色付けるのは、「イズレエルの日」に現される主の栄光である。イズレエルは悪しき残虐な王アハブと王女イゼベルが避暑地とした町であった。アハブ王が、バアル礼拝や数々の罪を犯したことでも有名な地であった。ここでイエフ(エヒウ)は、神の命令によってアハブの属するオムリ王朝の者を虐殺した(列王下9-10章)。しかし、イエフは、偶像をことごとく破壊することになっていたが、それを実行しなかったため(列王下10章29節)、イエフ王朝もオムリ王朝と同じ運命をたどった。イスラエルは、バアル宗教の導入と政略結婚による複雑な婚姻関係により、国が混乱し、クーデターが相次ぎ、内部から崩壊していった。イズレエルとは「エルが種を蒔く」という意味がある。エルとは、神(バアル)を現す。ヤーウェの民イスラエルという土壌に蒔かれたバアル宗教と、その文化の影響はまことに根強く、誰も摘み取ることができなかったことは、その歴史が示している。

しかしいまや、過去の歴史を通して負い通してきたイズレエル(エルは種を蒔く)という呪いの名を、神が民の新生のための祝福の名とされる日として語られている。主はその日、イスラエルからバアル宗教の種を取り去り、ご自身の種を蒔かれるのである。イズレエル(神は播く)という言葉は、ヤーウェによる救いを通して、土地と共に民の肥沃さを含意する新しい意味を得るというのである。

3節は、1-2節で響いている呪いの名から祝福の名への変化を契機に与えられる歩みの完成を示している。いまや「わが民でない者」、「憐れまぬ者」といわれていた者が、「わが民」、「憐れまれる者」と呼ばれる大転換がなされる。イスラエルとユダの兄弟姉妹の関係を分け隔てることになったのは、ホセアの子に示されていた呪い由来していた。その名は背信の罪を重ねる民の将来を示すものであった。そして、背信のイスラエルは、兄弟ユダと対立して敵対関係にあった。その敵対関係と憎しみの克服は、呪いの名を祝福に変えるほどの神の救いの行為の奇跡にあずかり、互いに祝福の名を認め合うことによって成立する和解によって実現する。イスラエルもユダも、生ける神ヤーウェを神とすることによってのみ、敵対と憎しみを克服し一つとなる、ここに神の民の本質が明らかにされ完成されることが示されている。

旧約聖書講解