エレミヤ書講解

25.エレミヤ書15章10-21節 『預言者の嘆きと神の応答』

ここには、預言者エレミヤの深い嘆きの言葉とそれに対する神の応答の言葉が記されています。この嘆きの言葉は、エレミヤがその困難な務めへの絶望、内面の疲れと迷いを漂白したものです。エレミヤの嘆きの背後には、一連の辛く苦しい経験が存在します(26,36章)。ヨヤキム王の時代、エレミヤは、「主に聞き従わず、主が遣わした預言者たちの言葉に聞き従わないならば、この神殿をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の呪いの的とする」と神殿で説教したため、祭司、預言者、民衆から迫害を受けるようになりました。またエレミヤと同じ預言をしていた預言者ウリヤの殉教死と、エレミヤが書記のバルクに口述筆記させた預言の巻物をヨヤキム王が焼き捨てる事件が起こりました。このような出来事が、この嘆きの背景にあると考えられます。

エレミヤに対する迫害の激しさは、21節の「凶暴な者の手から解き放つ」という言葉の中に暗示されています。エレミヤはそのような危機に直面して、「ああ母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)と生まれた日を呪う言葉を口にしています。本当は母の胸に縋って泣きじゃくりたいと思いながら、自分の人生の苦難の発端は母のうちにあるといって遠ざけてしまう、子供染みた人間の愛と憎悪の間に預言者の心は揺れ動きます。この矛盾に、預言者は苦しみます。この矛盾がエレミヤの嘆き全体を貫いています。彼は、争いのない、喜ばしい人間関係を欲し、拠り所を必要とする人間でした。しかし、神はエレミヤを世界相手に争う口論の人として預言者に召したのです。エレミヤは今、その召しに疲れ、嫌気がさしています。金銭の貸し借りはしばしば人の間の平和や友好関係を破壊する原因になりますが、エレミヤは債権者になったことも、債務者となったこともないのに、まるでそのような存在のように、「国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされて」人々から呪われているといって嘆いています。

エレミヤがこのように呪われることになったのは、預言者の務めの故です。

エレミヤは、預言者として課せられたつとめに忠実に、厳しい威嚇や警告、勧告の言葉を、王や民の指導者に、そして民にも語りました。しかし、エレミヤはそう語りつつ、彼らのためにとりなしの祈りをしていたのです。11節のエレミヤの言葉は彼の偽らざる真実な心境を語っています。

しかし、エレミヤは15節において一転して迫害者に対する神の「復讐」を祈り求めています。この報復を求めるエレミヤの祈りは、預言者の個人的な失望の体験から来る開き直りではありません。ここに問題されているのは、神の尊厳と神の義です。なぜなら、預言者を迫害する者たちは、同時に神の敵対者となっているからです。預言者が受ける迫害は、彼を遣わした神に忠実にその務めを果たした結果でありますから、神のゆえです。契約祭儀において、人は御言葉に忠実に歩んだゆえに、人から理不尽な扱いを受けたとき、その審判を神に訴え出ることが許されています。エレミヤはそれに則って、その敵対者たちに対する審判を寛容にも遅らせることによって、「わたしが取り去られることのないようにしてください」と祈ることによって、エレミヤは契約祭儀の枠内でなされるヤハウェの救いと災いという二重の判決を期待する旧約聖書の此岸的な信仰を表明しています。

それは、エレミヤにとって、神が召命のときに与えた約束を、なお覚え堅持されるかどうかということが個人的に重大だったからです。

神に召された預言者が忠実に神の言葉を取り継ぎながら、敵対する者の手に倒れていくなら、それは、彼を遣わした神が不真実で神の言葉そのものが倒れることになる、とエレミヤは信仰の目で洞察していました。それゆえ、エレミヤは預言者として存続し続けるべきか否かを神の決断を問います。

16節に記されているように、エレミヤにとって、神の言葉を受けるということは、食物を食べることと等しく、生きるうえにおいて必要欠くべからざる営みであり、神と交わること、神の言葉に仕えることは、人生の楽しみであり、喜びであったのです。エレミヤにとって、神の言葉は、彼自身の内からではなく、外から彼の上に臨み、彼の一つの現実として、自己を超えた権威を持つものです。エレミヤは、「わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です」ということによって、自分が神に捉えられているとの確信を表明しています。そして、その確信がこの上ない喜びとなって、心に活力を与えていました。このようにエレミヤは、眼差しを神にのみ向けている時、神への信頼と服従の中で、自らの生に何ら欠乏のない体験を得ていました。

しかし、神にのみ向けられていた眼差しが、人々とその人生の喜びに向かうとき、彼の思いは絶望の影に暗く覆われることになります。エレミヤはヤハウェの預言者として、放棄しなければならなかった様々なことに思いを馳せ、普通の人々が経験する他愛ない喜びを共にできずにいた日々に対する抑制された憧憬が突然その心を襲いました。エレミヤは、孤独に人間社会から除け者にされている淋しい気持ちで、それを感じとっていました。明らかに、エレミヤはヤハウェの手に捉えられていることを重荷として感じていました。神の怒りを告知せねばならない自分には、友人はいないことをエレミヤは承知していました。エレミヤは、自らを神の怒りに委ね、人間に立ち向かわせる神からの鼓舞する気持ちと、自分を人間の側に引き寄せる感情とのあいだに耐えがたい緊張を感じとる心優しい感情を持つ預言者でした。

そうした感情がエレミヤを止まるところのない苦しみへと追いやりました。「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか」という疑問が、答えを得ぬまま、彼を悩まし続けるのです。ここにおいてエレミヤは事態を超えて見通すことの出来ない絶望の淵に立たされています。だから、ここでの彼の嘆きは、「あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました」と神に対する告発へと変っています。エレミヤは、神に対する崇敬の念さえも、忘れてしまっています。

しかし、「当てにならない流れのように」神は約束したことを守らないと神を非難するとき、エレミヤは誤りに陥ってしまっています。なぜなら、神はエレミヤに助けや救いを約束しましたが(1:19)、友人たちの間で楽しいときを送るような、人生の楽しみを約束したのではなかったからです。2章13節において、エレミヤは、民が造った偶像を「水をためることのできないこわれた水溜め」と呼びましたが、いまや同じような非難の言葉をヤハウェに浴びせかけることによって、自分自身を自ら語った審判の言葉の下に置くことになりました。こうして、エレミヤは出口のない迷路と絶望のどん底に自らを陥れることになりました。しかし、それは、そのような閉塞状況の中で、唯一可能な道を彼に示す神の言葉を、エレミヤ自身が再び聞き取るためでありました。

この預言者の嘆きの祈りに続いて、神の応答が19-21節に記されています。神はこの預言者の懇願に一言も触れていません。神がここで語る内容は、祈り手に対する承認でも同情でもありません。それは、叱責と審判でありました。預言者エレミヤが、かつて、悔い改めを勧める説教において、不実な民に語らねばならなかった、「立ち帰り」を告げる言葉は、今やエレミヤ自身に向けられます。ここには、預言者がヤハウェから離反してしまっていることに対する、決定的な神の判決が含まれています。

「もし、あなたが軽率に言葉を吐かず熟慮して語るなら」というヤハウェの言葉には、預言者の嘆きと祈りが神の目には卑俗、低俗なものとしてしか映らなかったことを示しています。それゆえ、これに対する神の判決が当然なものとして下されています。ここでエレミヤに宣告された神の判決は、彼にこの判決を超えて歩ませようとするものです。神は預言者を非難せず、彼に失われていた展望を再び取り戻させています。エレミヤは苦悩し、「わたしは、・・・しなければならない」という義務感に押しつぶされていましたが、神は「わたしはあなたを、わたしの口とする」という恩恵の約束の下に彼を再び立たせます。そのことによって、神はエレミヤに対し変わることのない愛を表明しておられるのです。

神がエレミヤに約束する内容は決して些細なものでありません。神はエレミヤが再び神に立ち帰る道を開き、彼に神の臨在を確信させ、神の口となって再び仕えるべく、彼を受け入れているからです。だからといって、ここでも神は彼に、危険や苦難に遭遇しない安全保障を提供されません。むしろ、1章19節において、エレミヤの預言者としての召命のときに語られたことは、苦難は預言者が歩む神の道につきものであることを暗示していました。神はエレミヤに、危険や苦難に遭遇しないよう安全保障を提供されません。しかし、神は預言者にご自身を提供されます。そして、危機の克服は、服従と信頼以外に有り得ないことを示されます。神の権威のみが唯一の羅針盤であると知ることによって、エレミヤは再び預言者として立つことが出来ます。それは、わたしたちの信仰の歩みを確かにするものでもあります。

このような歩みこそ、ヤハウェの預言者にとっての唯一のあるべき道です。そもそもエレミヤが預言者として召命を受けたときに与えられた神の約束は、実に、このような歩みに対してなされたものでありました。そして、今再びこの同じ約束を神は繰り返されます。もしエレミヤが真実と服従の道を見出して神に立ち帰るならば、かつてエレミヤに与えた約束を保ち、臨在と救助の手を持って支えることを約束されます。そればかりか、神は権力者たちの暴虐から救い出すことも、彼に約束されます。エレミヤにとって苦難から解放される救いの道とは、神の介入によって、人間的我欲の暗い支配の諸力が審かれ、そのような諸力から救い出されることでありました。そして、それは、神が人間を自らに結びつけることによって、人間をその自我から解き放つことによってのみ可能となる現実でありました。そのことを、信仰の目で再発見するとき、神の御用にたちうる道具として、信仰と服従の新たな出発に備えさせられる時でありました。それは、まさにわたしたちの問題でもあります。

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