イザヤ書講解

22.イザヤ書30章1-17節『主をのみ信頼せよ』

30章1-7節には、『無益な同盟』に対する、イザヤの二つの預言が記されています。1-5節には、ヒゼキヤ王が結んだエジプトとの同盟を、無益な、神に信頼しない罪への糾弾がなされ、6-7節には、エジプトに送られる使節の無益な旅について語られています。

この二つの預言は、28-29章の出来事との関連で語られています。ユダの王ヒゼキヤは、705年の王サルゴン二世の死を契機に、アッシリアとその新しい王センナケリブに対して反旗を翻しました。それは、弱小のユダ王国が一国でできるはずがありません。それゆえ、エジプトと同盟を結び、アッシリアの脅威から免れようと致しました。ヒゼキヤ王の政策遂行に重要な役割を果たしたのは、ユダの指導者たちの意見でありました。したがって、エジプトとの同盟策は国を挙げての合意の下になされました。

ユダの指導者たちは、「死の契約」を結び(28章14-22節)、この同盟を非難するイザヤには隠してエジプトに密使を送りました。イザヤはその愚行に対して、「主を避けてその謀(はかりごと)を深く隠す者」「彼らの業は闇の中にある」「彼らには分別がない」(29章15-16節)と非難しています。その密使は、今や援助を求めてエジプトへの途上にあるという事態が、30章1-5節の預言の背景にあります。イザヤにとって、その行為は、主の計画に反するものであり、不信の故に失敗に終わることは必然的でありました。

かつてアハズがアッシリアの助けを借りて危機を脱しようとしましたにも同じように警告を与えました。

イザヤは、常に、同盟の無益を説きました。同盟策に走って国家存亡の危機を逃れようとした北イスラエル王国は前722年に滅亡しました。それから17年、迫ってくるアッシリア王セナケリブを恐れて、エジプトに支援を見出そうとするヒゼキヤやユダの指導者たちに対して、イザヤは「同盟」の無益を説きます。それは、神への信頼を欠く行為でしかなかったからです。

イスラエル国家の成立・発展期、サムエルもダビデも、「計りごと」は、主によって主と共に行われるという原則を意識していました。ところが歴代の王は、目先の状況に振り回されて、建国の原則を忘れ、安易にエジプトと「同盟を結ぶ」ことを行い、政治的にかえって危機を招き、国の滅亡を早めるだけでした。

それは、宗教的にはもっと深刻で、主に対する「罪を加える」ことになりました。何故なら、「同盟を結ぶ」際に、その誓約を伴う儀式において、異教の神々との交わりに入ることになったからです。

1節の「盟約の杯」という言葉は、「神酒を注ぐ」に由来する語だと言われます。同盟は契約締結にともなう神酒と関係づけられています。それは、異教の祭儀を持って異教の神々との交わりに入ることを意味します。同盟は政治的決断において主に逆らい、更に宗教的行為において、主との契約を侵すという二重の罪を重ねることになります。それは、主の霊の導きによらない、「罪に罪を重ねる」背信にほかなりません。「罪に罪を重ね」は、「的外れ」を意味し、ますます神に向かう道から外れることを意味します。

ここでイザヤは曖昧な表現をいっさい採りません。答えは二つに一つです。神に聞き従うか、それとも「ファラオの砦に難を避け」「エジプトの陰に身を寄せ」るか、どちらかであるといいます。ファラオの強さにおいて自らを強くすることは、「虎の威を借りる狐」にすぎず、申命記8章3節の「人は主の口から出るすべてのもので生きる」という言葉を引用して悪魔の誘惑を退けられた主イエスのように、人はこれ以外に真の強さを示すことはできません。

2節には詩篇からの語法が見られます。人々の行動の不自然さを示すのに際立った表現がここに見られます。この民の避け所は、本来、主であり、主の陰に隠れるはずであり、ユダの人々は神に期待すべきであるのに、その代わりに、人間に期待している、奇妙さが指摘されています。

詩篇作者が言う如く、主以外に宿るべき「陰」がないにもかかわらず、「同盟」への道を歩み続けるなら、それは主への背信であり、「的外れ」となるばかりか、ユダにとって「恥と嘲りの種になるだけだ」と言われています。

この民の起源は神に由来します。けれどもこの民は、国家間の軋轢の現実に生きます。そこに、この民の苦悩の現実があります。しかし、そうした現象に目を奪われてはならず、そのような苦難の中にも働く主の導きは御言葉によってなされますが、御言葉に集中し、苦難を乗り越えることがこの民の課題でありました。この中心を見損なった民の将来は暗い、希望なき将来でしかないと、イザヤは語ります。

イザヤは6、7節において、エジプトに向けられた使節に期待するユダに向かって、それは無益な旅に終わり、報いられることがないと語ります。エジプトとパレスチナの間に横たわる荒野が人間を脅かすものとして想起されています。そこに生息する危険な動物との遭遇によって、その危険さが想起されています。

「ラハブ」は創造の神に対抗する怪物のことで、何の生産も寄与もしない「無為」なる存在を表し、エジプトをさしています。財宝を携え援助を期待して出かけた使者は空し手で帰る。それ故、エジプトに向かうことは、神の恵みに逆行し、無益で虚しい将来しか期待できないと言われます。ここでもイザヤの使信はただ神に信頼せよです。

30章8-17節の中心になっている使信は、『主をのみ信頼せよ』です。

アハズ王の時代、シリヤ・エフライム戦争のとき、イザヤはイスラエルの民が自分の預言に耳を傾けて聞こうとしないので、預言を中止して記録して将来の証のために封じました(8:16-17)。それは絶望の行為としてではなく、主を待ち望む行為としてなされました。それから30年が経ち、ヒゼキヤ王の時代を迎えましたが、王も民も依然として主の教えを聞こうとしない不信の民であり続けます。アッシリアの脅威を、エジプトとの同盟によって免れようとする行為は、神の教えに聞こうとしない、不信仰から生まれたものでした。

主はこの不信の民に対して、審きを語られます。8-11節はイザヤとその弟子たちへの神の言葉です。エジプトに頼るその旅は空しいものに終わると語ったのに、王とその側近の者たちは、預言者と神の言葉を徹底的に無視しました。

神はエジプトに向かう使節たちに、エジプトに対する裁きの言葉を板に書き記し彼らの前に掲げることを命じています。預言を「板に書き、書に記せ。それを後の日のため、永遠の証しとせよ」という言葉は、その預言を封ずる命令です。

それは、この民が反逆の民で、偽りの子らで、主の教えを聞こうとしないからだと説明されています。イザヤが召命の日に告げられたとおり、語れば語るほどその使信は無視され、蹂躪される現実がいよいよ明らかにされていきます。

しかし、この現実が神によって明らかにされ、その使信を書き記し封ずるよう命じられることは、預言者にとって慰めとなります。自ら語る預言が無視されることが神の御心であるかぎり、その責任は預言者にではなく、これに聞こうとしない民にあり、其自体が神の導きの下におかれているからです。預言者は目に見える成果を得ないまま、語る使信が無視されたまま、その生涯を終わるとしても、神の働きは、その預言者を越えて前進します。ですから、預言者は、時がよくても悪くても、神の言葉を担わされたこと、語りえたことで十分だといって満足しなければならないのです。それはある意味で過酷な言葉でありますが、慰めに満ちた言葉でもあります。

何故なら、預言者は神にある将来において希望を持つことができるからです。誰も耳を傾け聞かないという事態の中で、黙々と預言し、その預言の言葉を書き記し、それを語った預言者は死すとも、彼の使信は神の言葉として残り、将来神の下に立ち帰ろうとする者に、想起され、悔い改める使信として生き残るからです。だから、預言を記録し封ずることは、預言者にとって希望の行為となります。

この偽りの民の拒みは、神の道具として立てられた先見者の見ること、預言者の正しい預言を拒むことによって、主が彼らに啓示しょうとされたことに対する無関心という形であらわされます。そして、自分たちの耳に心地よいことだけを聞こうとして、主の民としての道を逸脱し、イスラエルの聖なる方、主を消し去る無神の民のように振る舞うことによって、なされています。

そのような彼らの希望にかなう宗教は、人間のための願望としてのみ存在する阿片化した宗教であり、その神は偶像の神でしかありえません。神の真理は、人間の願望によって左右されませんし、すべきでありません。預言者は真理の子として、世に歓迎されることに努めるべきでなく、受け入れられるにしても、受け入れられないにしても、神の言葉を、神の言葉だからと言う理由で、語り続けねばなりません。聞かれないなら、その恵みの言葉は、後の日のために、書き記され、封ぜられ、神の裁きに委ね、自らは身を引くしかありません。ここに、神の言葉を取り次ぐ人間の務めの限界があります。しかし、神の言葉自体は生きていて力がありますから、神はそれを拒む者に容赦なく審きをされます。

12-14節は、御言葉を拒み続ける者に対する審きを語っています。「抑圧と不正に頼る」ことは、権力の堕落の極みを示しています。歴史的には、そのような権力の腐敗は、民衆の反逆と経済や政治の崩壊によって、外国の侵略の機会となることによって、滅びの原因となります。腐敗堕落した権力は自らの裂け目から急激に倒壊していきます。摂理の神は、歴史をそのように支配し裁かれます。それは、丁度、陶器師がその失敗作を惜しむことなく木っ端微塵に打ち砕くように、徹底した破滅においてなされるといわれます。

ここで、預言者に対する反抗が神に対する反抗と区別されつつも、一つの輪として結び合わされていきます。神の道具として、神の言葉、教えを語る預言者を拒むも者は、神を拒んでいるのです。しかし、そのように言えるのは、預言者の言葉が神の意思と一致している場合に限ります。今日の説教の課題もここにあります。人間の語る言葉が神の言葉となるのは、神の意思と一致して語られるときにのみ礼拝の場において起こる奇跡を意味します。

それ故、不信の民は悔い改め立ち、帰るとき、希望が持てます。その希望は彼らが拒んだところの御言葉を通して与えられます。御言葉が封ぜられたのは、この民を回復するためです。主の御心は、彼らが子として父親を信頼し、その言葉に聞き従うように、御言葉に聞き、立ち帰ることです。このように審きの中に、ユダに悔い改めの招きが語られています。それは、現在の困難な中で、静かに、落ち着いて、主を信頼し、御言葉に聞き従うことを求めて語られています。神は、ご自分を信頼する者を救い、力を与えられる方であるからです。

「しかし、おまえたちはそれを望まなかった」といわれています。ここで、問われているのは、神により頼むか、それとも人の力に頼るかという二者択一です。結局、神の真理により頼まないものは、馬という軍事力に依存し、その力と速さに応じて、逃亡しなければならないことになるという逆説が語られています。

先端の武器を頼りに、山の頂きに陣を張っていた兵士たちは、より強大な最先端の技術を持つ敵を見て逃げ出し、山の頂きに残るのは、丘のうえに淋しくうなだれる軍旗だけで。そのように僅かな残りの民しか残らないという悲惨な姿がここに描かれています。

主の意思に従わない政治は、結局のところ、弱者の政治でしかない。人間的な誇大妄想は、結局、滅びるしかない。しかし、「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30章15節)と、神に立ち帰ることが求められています。しかし、立ち帰る者には大きな希望、神にある転換が約束されています。神は静かに待ち望む者に確かな救いを実現されるのです。この二者択一の選択は一回限りのものではなく、「後の日のために」書き記された言葉として、あらゆる時代に妥当するものとして求められています。この説教は、神に背き、大破局の直中にある者に向けられた悔い改めへの招き、恵みの使信として語られています。

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