ホセア書講解

6.ホセア書2章20-22節『救いの時の新たな契約』

18節でホセアは「その日が来れば」という終末論的な言葉を用い、神の愛を動機とした介入によってなされる「バアルの追放」と、その愛に圧倒され、その愛に応えイスラエルが再びヤーウェを「わが夫」と呼んで悔い改め、もはやバアルの名が唱えられることがないようにする、という救いが成されることを明らかにした。

20節でも「その日には」と終末論的言語を用いて、救いのときの新たな契約の、積極的な約束が語られる。それは二つに分かれている。20節は、獣と世界との神の契約と、終わりのときの喜びが述べられている。そして、21、22節は、イスラエルとヤーウェの新たな(婚姻の)契約について述べられている。このようにイスラエルの救いは、世界の救いの中にはめ込められている。それは、バアルではなくヤーウェが、自然と世界の創造者であり、主であることを示している。その様な神が、世界を含む救いをもたらすので、もはや世界の中に対立する戦いも、人間の罪の苦しみもない、平和の王国が打ち立てられると、ヤーウェはいう。既に1章7節で、審きの後に起こる救いの預言が語られていたが、その際、「弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない」という主の言葉が語られていた。2章20節はそれを受けて語られている。野の獣たちの残虐さも、諸民族の戦争も、神は終わらせる。人間が、その生を確保しようと努める方法とは、弓や剣を用いる戦争による手段が用いられるのが常であったが、神は、その手段においても結果においても、根本的に異なるやり方で、新しい生の確固とした根拠を築かれる。

しかし、ホセアの描く、神の奇跡によるこの救いについての表象は、決して彼独自のものでない。他の預言者たちも用いている。獣たちの世界の平和については、イザヤ書11章6節以下、35章9節、エゼキエル書34章25節等にも語られている。世界の戦いの終わりについては、イザヤ書2章4節、9章4節、ザカリヤ書9章10節、詩編46編10節に語られている。

ホセアは終わりの時の平和を、自然と歴史を統一して描き、神の契約という旧約聖書に見られる典型的な思想でまとめた。このことは、イスラエルの生の理解に新しい意味を与えることになった。人間の側から、神の側に重点が移され、生の存続と維持は、ただ神の行為、究極的には、神の側からしか理解し得ないものである、との啓示となった。

バアル宗教においては、その生と存在意義は、自然的な営み・観察から導き出された妥協的な産物であった。しかし、自然的な生の意味は、自然そのものを感覚的、物質的に観察することによって得られるものでない。歴史的な生の意味も、此岸的で人間的な、また民族的な必然性からは出てくるものでもない。しかし、イスラエルは自然的存在としての自己理解を、バアル宗教の世界の中で育ててきた。イスラエルの王たちは、国家存亡の危機を、神からの力ではなく、同盟策によって自らを救おうとし、自らの力で歴史的生を形成しようとしてきた。ホセアはそれを堕落であり迷妄であると断罪した。

生の本質と意義を正しく理解する道は、神の側からのみ可能である。神の愛と恵みが、自然と歴史における神の支配の動機であり、その目的は、神の平和の救いである。その救いに与かり、その救いの神に向かうことによって、はじめて民は、地上的、感覚的、人間的、利己的な努力の囚われから解放される。新たな神の契約という統一的視点において、自然の歴史の諸力は、神とその救いの計画に結び付けられ、その支配の下に置かれる。束縛されるのは、自然と歴史であり、人間ではない。どちらも、神の愛と恵みによる支配に服するのである。その事実を、民が信仰の目で見る時、自分たちの自然的生を支配するのは、自然と歴史の諸力ではないということをはっきりと認識するようになる。

神の契約は、イスラエルにとってどのような意味を持つか。それを21-22節の救いの告知が、明らかにしている。神は、イスラエルと、永遠に破られることのない新たな契約を結ばれたのである。過ぎ去ったことは忘れられ、古いことは神の愛によって克服され、神と民との間では、一切が新たにされる。それは、離婚した妻を再び迎え入れることを語る3章と違う語り掛けである。婚約及び婚約時代の、心のこもった有様だけが述べられている。花嫁の解放についてしか用いられない言葉が使われているのは、すべてが新しくされたからである。このようにしてなされる新たな契約は、まったく神の恩寵としてなされるのであり、それゆえにもはや失われることがなく、永遠に存続するものである。

神は、花婿として花嫁のイスラエルに代価を贈り、自ら契約を基礎付ける。「正義と公平、慈しみと憐れみ」とは、契約の条件として人間に求められた条件ではなく、どこまでも神の賜物であった。それはまた、神の本質を示し、契約の性質を示すものであった。ここでも神は、人間の行為と価値を問題にされることはなく、ただ恵みをもってひたすら与えるものであり続けられる。

「正義」(ツェデク)とは、神の義であって、どこまでも宗教的概念である。それは、神の救いの意思全体を包括する概念であり、旧約聖書において、神の救いの動機として語られる。苦難に陥っている民の救いは、神の正義を根拠になされる。神の義(ツェデク)とは、そういう概念であり、対等の条件に基づく法的関係ではない。これに対して「公正」(ミシュパート)というのは、宗教的共同体としての、契約の民の道徳的生活秩序を基礎付けている神の法秩序から、理解すべきものである。

ホセアの預言で基調音として流れているのは、「慈しみ」(ヘセド)である。ヘセドは「愛」とも訳される。ホセアは、神の最も奥にある、神の本質であるヘセドに目を向けている。イスラエルは、この神のヘセドによって、人格的な神の共同体としての命が保たれ、そこから神との永続的な相互の命の交わりが生じてくるのである。このヘセドと並行するのが、神の「憐れみ」(ラハミーム)である。新たな契約は、神の愛から生まれる神の赦しに基づいている。民は神の憐れみによって新たな生を得、神の赦しの恵みによって生きることができるのである。

22節では、神が民に契約によって贈られるものを、「まこと(=真実)」(エムーナー)という概念でまとめられている。これは、アーメンと同一の語源に属する言葉である。エムーナーは、義、公正、慈しみ、憐れみとして約束されたことを、神は実際に贈られるのであるから、わたしたちは、それを実際に期待し、信じ、それによって生きることができる、ことを明らかにする。神の約束の信じ得ること、その確実なこと、その愛の思いの真実で不変であること、契約が堅く永続するものであること等々が、エムーナーという言葉の中に含まれている。

新しい契約の基礎は、このような豊かな内容を持つ。民の生の根拠は、もはや物質的・感覚的世界や、人間的権力政治による自己追求の世界に置かれることはない。神は、新しい契約によってその本質を示し、ご自身を民に与え給う神、に対する内面的・霊的な関係として、民の生の根拠を示された。その結果として、民は「主を知るようになる」。その意味で、イスラエルのこの神認識も、神の賜物である。この「主を知る」という言葉には、義、公正、慈しみ、憐れみにおいて、また、まことにおいて、自らを啓示される愛の神に、心を捧げ、服従と真実とをもって応える生活の中で、実践的に神を承認し、認識していく、ということが含まれる。神が、その民のために立てられた新しい契約は、このような霊的な基礎に基づく神と民との間の、生きた相互関係を成立させるのである。

旧約聖書講解