申命記講解

20.申命記28章1節-68節『祝福と呪い』

申命記28章は、モーセの第二説教の結びの部分で、26章の続きとして展開されています。主題は、主の御声に従う者には祝福を、主の御声に聞き従わず、主の命令と掟とを破る者には呪いを置くという、申命記を貫く中心思想です。「祝福と呪い」の言葉を最後に置く契約の定式は、古代オリエントの宗主であるヒッタイト王が、自分の封臣と宗主権条約を結ぶ際にその条約を一定の型に則って起草していましたが、旧約聖書の本文にも、申命記にもそれが見出されます。この型を伴う規格には、(1)前文、(2)前史、(3)原則の宣言、(4)細則、(5)神々を証人として召喚すること、(6)呪いと祝福、という構成要素が含まれています。

申命記のこの箇所は、(6)の呪いと祝福に該当し、大王であるイスラエルの神ヤハウエの名において、「祝福と呪い」の言葉を記しています。1節-14節が祝福の宣言を、15節-68節が呪いの言葉を包括しています。しかし、「呪い」の言葉が、「祝福」の言葉の4倍の長さで、極めて不均衡な構成となっています。呪いの言葉が、まさに断続的に生じた災禍の結果を指し示していることは、前587年のバビロン捕囚という破局を考えるならば容易に理解できますし、この破局を、多くの人は禍の威嚇の直接的な成就と見なしています。

しかし、呪いは呪い自体を目的として語られているのではなく、祝福に与るようにという悔い改めの招きを含んでいます。58節と61節は、この律法が、既に「律法の書」に記されたものとして言及しています。これによって申命記法典が後代に形づくられたことが分かります。同様に、47-57,59-68節の呪いの最後の部分は、紀元前6世紀のエルサレム包囲とバビロン捕囚による恐るべき状況を反映している様に思われます。事実、45,47節で、話し手は、既に起こった不従順を思い起こしているかのように、過去時制を用いています。

説教者は、実に具体的に、主の御声に聞き従った場合に与えられる祝福と聞かなかった場合に与えられる呪いを語っています。「町にいても」「野にいても」という言葉は、主の祝福と呪いが場所を選ばないことを意味します。主の御心はどこにおいても示されるのです。4節と18節は、地から生まれる人も家畜も産物も、すべてが祝福と呪いの対象とされると語っています。「籠もこね鉢」も、地からの実りを運ぶときや、食事を準備するために日常使われる道具です。日常の些細な行為の一つ一つに対しても主の御声に聞く者であるかどうかが問われているのです。

そして、聞く者に、小さなことにおいても祝福を、聞かない者には呪いを置くと語られているのです。6節と19節の「入る」と「出ていく」は、それぞれ、ある企ての着手と完成を意味します。生涯のあらゆる企ての始めから終りまで、すべては主の御声への応答のわざとして、祝福と呪いの対象とされます。

主は地上でのすべての手の業を祝福し、また呪うお方です。このすべては、主の御声に聞き従うか、そうでないのかに関わります。これに聞く者は、「常に上に立つ」(13節)ものとしてくださるという素晴らしい約束が語られています。「立てて」という語は、主がヤイロの娘を立たせた時に用いられたのと同じ「クミ」(ルカ8:54)です。

ここには、本当に主の御声に聞き従うなら、主の聖なる民として立てられるとの約束が語られています。新しい命の永遠性は、主が立ててくださることによりますが、それは御声に聞き従うものに与えられるという祝福として語られているのです。

10節の「主の御名が付けられているのを見て」という言葉は、主がイスラエルの所有者であり、保護者であることを明らかにしています。地のすべての国民がイスラエルを恐れるのは、彼らが主の所有の民とされ、主が保護者となられているからです。イスラエルのエリート性を保証するのは、彼ら自身の優秀性や能力によるのではなく、主の御名が付けられていることによるのです。だから、主の御名が付けられていることと、主の御声を聞くことは、イスラエルに与えられた特権であり、これを忘れることは、イスラエルが祝福ではなく、呪いの道を歩んでいる指標となります。

28章には、祝福より呪いのリストが圧倒的に多数挙げられています。これは罪ある人間に対して、実に教育的です。人の心は、恵みよりも呪いの方が具体的で理解しやすく、恵みは忘れやすい、という性質を持つことを知る神の教育的指導がここに見られます。
出エジプトの救いの体験は、イスラエルは直ぐに忘れ、つぶやきをはじめました。40年間彼らと共に旅したモーセ(そこに身を置いて語る説教者)は、この民の性質をよく知っていました。罪を悔い改め反省させるためにも、呪いのリストを多数上げる方が判りやすいと考えたからでしょう。

この申命記を実際誰が読んだのかを思いめぐらすことは、この際重要です。それは、律法の書を発見し、宗教改革を行ったヨシヤ王であり、国の滅亡の危機に警告の預言をしたエレミヤでありました。国の滅亡と捕囚の時代を経験した民は、この申命記を読みながら、真の信仰の姿を回復するために取り組むよう導かれました。

呪いの言葉の最初と最後にエジプトが言及されているのも実に興味深いことです。イスラエルは奴隷の苦役から解放された時、主がエジプトの心をかたくなにして打たれたように、イスラエルは主の御声を聞かないなら、エジプトを打たれたように打たれるとの警告をするためです。

36節の「主は、あなたをあなたの立てた王と共に、あなたも先祖も知らない国に行かせられる。あなたはそこで、木や石で造られた他の神々に仕えるようになる」という言葉は、実にアイロニーに富み、物笑いの種になった捕囚の現実を指し示しています。

48節の「あなたは主の差し向けられる敵に仕え、飢えと渇きに悩まされ、裸にされて、すべてに事欠くようになる。敵はあなたに鉄の首枷をはめ、ついに滅びに至らせる」という言葉は、エレミヤ28:14において、偽預言者ハナンヤに明らかにした主の審判を彷彿させるものです。49節以下にイスラエルに示される惨状のリストは、名ばかりの本当に主の御声に聞くことを忘れた主の民の最期の姿を示しています。

説教者は、「もし、この書に記されているこの律法の言葉をすべて忠実に守らず、この尊く畏るべき御名、あなたの神、主を畏れないならば、主はあなたとあなたの子孫に激しい災害をくだされる」(58,59節)との呪いを与え、主の御声に聞くことに失敗した民に向かって、「あなたたちは空の星のように多かったが、あなたの神、主の御声に聞き従わなかったから、わずかな者しか生き残らない」(62節)、との呪いも告げています。しかし、これらの呪いの言葉は、悔い改めへの招きとして語られていることを覚えることが大切です。民が心を入れ替えて、主に立ち帰り、主の御声に聞き従う道へ再び歩み始めるなら、祝福を与えるとの約束が同時に語られているのです。

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