エゼキエル書講解

20.エゼキエル書20章1-9節『イスラエルの罪の歴史、エジプトにおけるイスラエルの反抗』

イスラエルの長老数人がエゼキエルの元に訪ねて来て、主の御心を尋ねたこの出来事は、エルサレム陥落の5年前、前591年8月のことです。14章の場合と同じように、主は「お前たちが尋ねても、わたしは答えない」と言って、答えを拒否しておられます。なぜ神が拒まれるのか、預言者に神が付け加えた理由は、主の選民とされたイスラエルの歴史は、嫌悪すべき不真実と神の恵みの意思への反抗によって、汚され、崩れさってしまっているので、答えることができない、ときっぱりと述べられています。

イスラエルの民として誇るべきものは、もはや何もなく、彼らのその罪の歴史を支配しているのは、ただ神の忍耐と信実だけです。この神の審きの言葉は、イスラエルの誇りを打ち砕き、神の救いの歴史を罪の歴史へ変えていったイスラエルの罪の歴史が明らかにされることになります。

5-31節に、荒野彷徨時代におけるイスラエルの反抗が明らかにされていますが、安息日を汚す罪と偶像崇拝の罪の指摘は、エゼキエル自身において語られたものというよりは、祭司資料の語り手、若しくは申命記的歴史家によって、エゼキエルの預言をより強固なものにするために補われたものであるとみなすべきだとする多くの聖書研究者の意見があります。このような安息日重視の記述は、エゼキエル書全体の中で、本章だけに見られる特徴で、安息日を汚すことは主の聖所を侮辱する例として8,26節において挙げられ、祭儀上の清浄規定の無視と結びつけられています。

しかし、エゼキエル自身は、これを守れば汚れた地(異邦人の土地)においても主を告白することができるという戒め(18:6以下)をあげている場合、安息日の戒めに言及していません。エルサレムの罪(24:6以下)、あるいは捕囚後もその地に残っている者の罪(33:25)を数え上げている場合でも、安息日についての言及はありません。そして、さらに顕著なことは、新しいイスラエルが主なるヤハウエに喜ばれる礼拝をするようエゼキエルが定めている場合、安息日については何も語っていません(本章32節以下)。エゼキエルが、本当に安息日をイスラエルが宝の民として選ばれた聖なる保障のしるしとして考えていたならば、そのしるしは、主の民の再建に不可欠なものとして言及しているはずです。しかし、神によって打ち建てられる民の新たな共同体の形成を描写する36,37章にごく一般的に神に従う歩み、あるいはイスラエルの真ん中に新たに設けられる神の聖別された現在を目に見えるように具現化されたものとして聖所について語られているだけで、安息日と結びつけた議論はしていません。

それは、本章以外どこにも指摘されていない、出エジプト記31章13節と17節の祭司資料による伝承の中に、ほとんど文字通りの形で見出されます。本章12節と20節の安息日と創造の業を結びつける特徴的な表現は祭司資料の語り手の特徴である、とアイヒロットという註解者は結論付けています。

5-9節について、申命記に特徴的なイスラエルの「選び」に関連して他の国民に卓越したイスラエルの責任についての言及は、祭司資料独自の用語が用いられているとの指摘もアイヒロットは行っています。

しかし、エゼキエルが第一に思い描いていること(6節)は、出エジプト記4章29節以下に描かれているような、奴隷とされている民への解放の告知と共にモーセが派遣されたことです。この記述に見られる神の愛の調べを聞き落としてはならないことを強調しようとしています。

続く7節は、この神の恵みにとどまるために必要なことは、エジプトの偶像に目を奪われず、それらを遠ざけることです。

しかし、これほど豊かに贈られている神の愛に比べると、主の民イスラエルの反応は、鈍く、反抗的です。「しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとしなかった。」(8節)という言葉で、そのことが指摘されています。

主なるヤハウエは、わが名のために、わが名を啓示するためにイスラエルを選ばれたのです。神は、その名において啓示される本質に従って行為されます。そして神は信頼にこたえる愛をたえず喚起しようと努めておられます。しかし、神は、選びの民イスラエルだけではなく、世界に対してもエジプトにおけるその啓示に自らを拘束するものとして行動されることが9節において明らかにされています。神の救いの意思は、イスラエルを越えて世界の諸国民にも向けられています。

「しかし、わたしはわが名のために、彼らの住んでいる諸国民の目の前では、わが名を汚すことがないようにした。その諸国民の前で、わたしはイスラエルをエジプトの地から導き出して、わたしを示したのである。」(9節)という言葉は、罪ある民の赦しの奇跡は世界を包含する、イスラエルを越えて、諸国民が認めるようになることを目指す、射程の広い普遍的な広がりを持つ言葉として示されています。捕囚の地バビロンで、この出エジプトにおける神の選びと、救いへの導きだしを覚えることは、特に重要な意味を持ちます。

なぜなら、バビロン捕囚は、エジプトの奴隷の地へ逆戻りするような、神の恵みの選びから見れば、退行現象です。なぜそのようなことが起こったか、それは、主なる神である「わたしに逆らい、私に聞き従おうとしなかった」結果もたらされた、「わたし(神)の怒り」の出来事であることを示しています。そのことを信仰の問題として認識することが大切です。神はご自身の御言葉に聞く者を救いへと導かれます。それを明らかにするため、御言葉に聞き従わず罪を犯し続けた民を、異教の地、異教の支配の中に置かれた、そのことを認識することが大切であります。神は、その屈辱的な異教の支配の中で、もう一度、神に聞くことの大切さを学ばせ、選びの民を約束の地へ導き入れる。しかも、彼らだけでなく、その道を世界の諸国民にも及ぼすものとして開くためのものであるという救いの普遍的な広がりについても語られています。
この慰め励ましを聴くことが、真の悔い改めであります。そこから、希望と喜びに満ちた神の恵みの救いの世界が開かれていきます。その導きを信じ、絶えず主の御言葉に聞き従う者として立っていくことが大切です。

旧約聖書講解