ホセア書講解

13.ホセア書5章8-15節『離れ去る神』

ここには、アッシリアの侵略によって生じたパレスチナにおける、前733年いわゆるシリア・エフライム戦争の時に語られた預言が集められている。

イスラエルの運命を決定的にしたのは、アッシリア大王ティグラティピレセル三世(前745-727年)の征服計画であった。ティグラティピレセル三世は、異常なまでの領土拡張主義者であった。彼はこれまでの征服者と違って、諸王国を降伏させて、貢ぎ物を受け取るだけで満足せず、征服地をアッシリアの代理人が支配する属州とし、アッシリアへ併合することを始めた。被支配民のアッシリアの支配に対する反抗の芽を完全に摘み取るため、征服地の上層階級を捕囚とし、強制移民させ、替わりに他の地域の住民を入植させ、混血化させる政策をとった。

前738年、レツィンの支配するアラムとメナヘムの支配するイスラエルを含むシリア地方の諸国は、貢納してアッシリアの宗主権を認めた。ところが、ティグラティピレセルは前737-35年に、東のメディア人と北のウラルトゥと争っていたので、シリアの一部の諸国はその機会を利用して、アッシリアの脅威を除くため、反アッシリア同盟を結んだ。イスラエルでは、メナヘムの子ペカフヤが近衛の副将ペカに暗殺され、ペカが王となり、それまで不倶戴天の敵同士であったアラムと盟約を結び、アッシリアに反抗した。しかし、アッシリアに対抗するにはできるだけ多くの国が参加することが効果的であった。そこでダマスコのレツィンとイスラエルのペカは、強制的にユダを同盟に加えようとした(列王下16:5、イザヤ7:2)。しかし、ユダの王アハズはこの同盟に応じようとしなかった。応じようとしないユダに対して、共同して戦いを仕掛けたのが、シリア・エフライム戦争であった。この試みは、5章8節から6章6節に反映している。そして、戦いを仕掛けられたユダの王アハズは、狼狽して、静かにしているようにという預言者イザヤの助言にもかかわらず、こともあろうに、同盟軍が最も恐れていたアッシリア王に助けを求めた。アッシリア王にとっては、かねてより計画していたシリアとパレスチナの征服の絶好の機会を得ることになって、直ちに行動を起こした。

アッシリアがイスラエルの北部ガリラヤを占領したために、アラムとイスラエルは直接この大敵から身を守らねばならぬことになって、前733年ユダ王国は解放された。次いでティグラティピレセルは、アラムを攻撃し首都ダマスコを前732年に滅ぼしてしまう。この機会にユダは南からイスラエル王国に反抗を企てたので、イスラエルは両面から脅威を受け、アッシリアに降伏することで、瀕死の状態の中でも助けられる者だけは助かろうとした。こうしてイスラエルは、ヨルダンの東地区をも失い、残るのは首都サマリアをめぐるエフライム山地のわずかの地域だけとなった。

イザヤ書7章で、この同じ出来事を、南のユダの預言者イザヤが記している。ホセアとイザヤは、この出来事について、何か言うべきことを持っている。彼らの国が異なった側にあり、それぞれの王は反対の政策を遂行していたのであるが、二人の預言者は究極において同じ事を語っている。その国家存亡の危機的な状況の中で、小手先の政治力を働かせることは、民の苦難の救済法とはならない。結局は苦しむだけだ。もし民が、神との関係で正しい者となったなら、政治は彼ら自身を保護したであろう。ユダは、アッシリアに金を払って免れようとし、イスラエルは同盟策で戦うことによって免れようとした。これに対し預言者は、それらの行動は、時間を無駄にしているだけでしかないという。それは、神の手の中にある、ただの武器でしかなく、神こそ、民が応じなければならない存在である、と。

8-9節の詩は、生き生きとその起こっている出来事を描写している。ギブア、ラマ、ベト・アベン(「悪の家」の意、ベテルのこと)の三つの町は、いずれもベニヤミン族の領域にあり、イスラエルの南の国境近いところにあったので、ほとんどがユダからの攻撃にさらされた。そして、この三つの町は、分裂した王国時代を通じて、常にその領有権が争われた領域でもあった。

ここに述べられているのは、イスラエルのペカとアラムのレツィンが、アッシリアの侵攻によってエルサレムからの撤退を余儀なくされた後、ユダが占領されていた自分の土地を取り戻し、あわよくば反対に敵の地をそのまま保有しようとする、ユダ側の反撃の試みについてである。ホセアはこの反撃に神の罰を見ている。イスラエルとユダの兄弟間の争いが、それを招いたのである。今や神の審きは、イスラエルの兄弟部族の争い、王国分裂後の民の呪詛として現れてきた。ここにはヤーウェを中心にした「大イスラエル」連合の展望が貫かれている。神ヤーウェも預言者も、両国のいずれに対しても超然として立っており、いずれの側からも動かされることはない、不動の決定を告知しているのである。それは、イザヤの告知においても変わらない。

10節は、ユダ側の行為に対する神の怒りの審判の告知である。パレスチナにおいては、牧草地や畑にある国境は堅固な垣によってではなく、単に境界石によって、双方から印がつけられていた。わずかばかり境界石を動かしても、見つけることは困難であり、そのような方法で土地を得ることは容易であった。このような犯罪に対しての社会の唯一の防御策は、そのような犯罪に対し強い軽蔑をあらわすことであった。申命記27章17節は、そのような罪を呪うことによって罰している。

確かにユダは、エフライムに対する神の審きの執行者とされているが、そのためにユダが神に対する自らの責任を免れたわけでもなければ、審きを免れたわけでもない。神の義は、どちらの側にも偏ることがない。より高い見張所からの判決として下される。南王国の軍事的指導者たちのイスラエル領への侵入は、明らかに国境侵犯の罪であった。神の怒りは、兄弟の民を犠牲にして、自らを富ませようとする民に向けられる。この点で、エフライムもユダも、兄弟の民を犠牲にしようとした点で、弁解の余地はない。ホセアの神観は、民族主義的政治の域を超えた、はるかに高いところにある。

11節には、蹂躪された民に対する、ホセアの深い同情の思いが響いている。ホセアは、エフライムの圧迫について、また領土の権利が踏みにじられたことを語る。その保持は、契約の伝統(申命記27:17)にそった、預言者の宗教的確信から語られている。しかし、ホセアが、イスラエルの民に対する神の判決を曇らせることはない。イスラエルが、盟約によって不倶戴天(ふぐたいてん)の敵アラムに従い、ユダに向けてのイスラエルの自然に反した政策が、今や無残な兄弟の戦いを惹き起こすによって、神の罰にあった、とホセアは断定せざるをえない。

12節において、ホセアは、さらにその罪を追及する。神は、歴史を超越し、歴史を裁く存在であるが、ホセアは、それ以上のことを見ている。すなわち神は、出来事自体の内に、人間の内に、その意識と行為の内に、内在し、摂理の神として働いておられ、したがって人間の目に見えないところで裁いておられる、と見ている。ホセアは、このように万物のうちに生きて働かれる神に目を向け、その神理解から、神の審きの介入を「腐れ」という比喩で説明している。つまり、それは、外からは見えなくても、既に始まっている内的な堕落(偶像崇拝と異教文化への憧れ)、内に持つ兄弟憎悪の精神のうちに、そうしたことを通して現れる恐るべき破壊力のうちに、ホセアは神の裁きを認めている。しかし、ホセアは、こうした事物と神を同一視することはない。そうしたことに働く内在性として、神を軽視し、その栄光に傷をつけることが、ホセアの目的ではない。民の堕落のうちに、彼らの歴史の内的な崩壊の内に、目に見えない形で働いておられる神と、その審きを、ホセアは見ているのである。

13節は、民が自らの病、弱さについて、決して無知でなかったことを示している。彼らは、それを自覚していたが、そこで危機のうちに働いておられる神の御手を認めなかった。むしろ、神ではなく、それとは別の、人間的な力に助けられれば安心しておれる、と考えていた。ホセアは、この考えに対して、その誤りをきっぱりと指摘する。ただ、この場合のアッシリアへのエフライムの隷属を、前738年のメナヘムの貢納のことをホセアが考えているか、それともアッシリアの臣下となって王位に就いたイスラエルの最後の王ホセアのことを言っているのか、どちらとも断定しかねる。しかし、この場合ユダがアッシリアの助けを求めたというのは、イザヤ(7章)が反対した、ティグラト・ピレセルへの使節派遣のことであろう。南北で預言者が、アッシリアの助けを求めることを反対しているのは、政治的な考慮のことではない。それは、どこまでも信仰上の信念の問題であった。人間の力では神の御手を阻止し、その決定の実現を妨げ得ない。ホセアは、イスラエルの内部崩壊を、神の審きとしてみていた。この事実は重い。ホセアの診断がそうである限り、契約の民が内面に負う傷は、外部からの力を用いて癒すことはできない、ホセアが結論を下すのは必然である。

イスラエルの深い病は、不幸な兄弟喧嘩であり、また他者の助けを当てにすることに見られる、ヤーウェへの軽視にあった。しかし、人々が神を認めず、心に留めないところでこそ、神は働いておられる。人間の本当の不幸は、その容赦のない審きの行われるところに、神を認められないところにこそある。

14節において、預言者は、この恐るべき神、この神に違反しては人間的に安全保障を全く与えない神、を一度徹底的に指し示す。狙った獲物を決して逃がさない獅子にたとえて、それは語られる。真に恐るべきものは、ただ一つしかない。それは、神である。神に抗してなされる自己保存と救出の試みは、すべて挫折するほかない。預言者ホセアはそのことを語っている。

15節において、預言者は、この審きの中で一つの希望を語ってる。

イスラエルの人々は、アッシリアの脅威に直面し、ヤーウェはその民を見捨てられた、ヤーウェはアッシリアの神に対して無力だ、と考えたかも知れない。しかし、ホセアは、神は民を見捨てたのではなく、民から離れられたのだという。その場合でも、神は、なお働いておられ、その民を見守っておられる、というのである。そして、民が神から見離されたと本当に考えている時も、ヤーウェの御手がある、というのである。神の御手は、悩みのうちにある民に差し伸ばされており、民がその苦難を通して自分の罪を認め、神への熱心に動かされることを求めて待っておられる、というのである。神の審きは、絶滅させようとする意思ではない。ホセアにとって、審きは、神の教え・導き・恵む救いの意思への信仰とは、切り離して考える事ができない。ホセアは、ただアッシリアの危機迫る中で、すべての民が悔い改める日の来る光景を思いめぐらしているのである。

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