詩編講解

12.詩篇第14篇『愚者無神』

この詩篇は、神を信じない者の堕落した愚かな姿を告発し、最後に、神の助けと全き救いに対する待望を持って閉じられています。この詩篇において叱責の対象とされているのは、おそらくイスラエルの指導者層であろうと思われます。なぜなら、彼らはそれぞれ、神に対する責任と、民に対する牧者としての責任を負わされているにもかかわらず、利己的な目的のために貧しい者たちを搾取し、民を荒廃させていたからです。神を否む指導者層のこのような嘆かわしい姿は、イザヤ書5章8節以下やエレミヤ書5章12-13節に伝えられています。

この詩人は預言者と同じように、利己的な目的のために貧しい者たちを搾取し、民を荒廃させていた神を否む指導者層の嘆かわしい姿を見て、厳しい叱責の言葉を述べております。「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。」(1節)

ここに聖書の神観が明らかにされています。聖書において、『神などない』ということばは、神存在についての一つの考えを表すものであるといえますが、しかし、このことばは神存在についての理論的な否定を意味する言葉ではありません。ヘブル人の神観にはそのような観念的・理論的な神観はそもそも存在しません。この作者が問題にしている事柄は、人生の具体的な歩みにおいて、神の現実の要求から逃れようとする「実践的無神論」の問題です。人生の具体的な歩みにおいて、神の要求を否定したり、拒んだりすることによって、神を知らない者、神を信じない者として振る舞う中で、実際、『神などない』と言ってしまっている「実践的無神論」の愚かさを詩人は告発しているのであります。

この詩人の目には、このような神否定ほど愚かで不可能な神否定の仕方はないと映ります。なぜなら、彼は生きて働かれる神の現実から逃れおおせる者は一人もいないと見ているからです。それゆえ、彼の目にはこうした試みは愚かと映ります。そうした試みは、道徳的な腐敗に終わるしかないと映ります。なぜなら、そのような神否定の試みは、もともと神への不服従から生まれたものであるかぎり、不服従の結果として、善を行うことが全く不可能となるからです。神に対する責任が欠如した心は、頑迷で自己の利益しか追求しない排他的なものとなっています。そのような心の状態にあることがすでに、逃れることのできない神の審きの御手にあることを感じとっているのであります。

神は地上の一切の出来事を探り究めることのできる、全知全能の眼を持っておられる方です。すべてを探り知る神の眼に隠しおおせるものは何も存在しません。それゆえ、

主は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか(2節)

といって、神は鋭い眼光を持って人の子らを見下ろし、思慮ある目覚めた者、神を尋ね求める者がいるかどうか捜しておられます。

しかし、神がこのうえなく寛大に見ておられるのに、誰も彼もみな背信のうちにあり、善をなす者は一人もなく、みな腐敗しきっていました。人に向けられた神の眼差しは徹底し真摯です。それゆえ、人間に義を行う能力が全く欠如しているという神の断定も徹底しています。パウロがローマ書1章18節以下で明らかにしているように、人間の宗教性さえ本来神に向かわず、自己満足に向かう無神性の状態にあり、従って、神の義に反することばかりおこなう義を行う能力の全く欠如している人間の姿と、この詩篇の詩人が分析する人間の姿は完全に一致しています(3節)。

神のことばは更に威嚇の度を強め、4節において、その矛先は「神ご自身の民」の間に行われている特定の不正に向けられています。神とご自分の民に対する指導者たちの傍若無人の振る舞いが、いかに理不尽なものであるか、その事を指摘する「パンを食らうかのようにわたしの民を食らう」という神の問いは、まるで最後の瞬間の点呼のように響きます。それは、悪人たちに、彼らの倒錯した行いを悟らせるために吹かれる警告のラッパであります。

彼らは神に尋ねることなく、自分の仲間を食い荒らすことを生活の糧として行っています。彼らには宗教的、社会的な責任感が全く欠如しています。この詩篇の詩人は、このことのうちに彼らの愚かさを見、彼らに神と人間の現実に対する洞察が欠けているのを認めます。

彼らは、主の名を呼び求めることをしないことによって、神の生きて働く現実を無視していました。しかし、そのことによって、神が生きて働かれるという現実を取り去ることは不可能です。「神などない」と心の中でいう、目のくらんだ愚か者は、それがまるで可能であると思い込んでいます。しかし、まさにその事実の故に、神はご自身の現実を明らかにされます。冒涜者に対する審きにおいて自らを貫徹されます。

「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい」という言葉は、祭儀の場における審きにおける神の現在を明らかにしています。神の現実が何を意味するか、神御自身が明らかにされるので、彼らは思い知ることになります。しかし、その時は、時すでに遅しです。その時、彼らは恐怖に立ちすくみ、彼らは神を敵に回したことを認めざるを得なくなります。その時、彼らは「神は従う人々の群れにいます」(5節)ことを知らされるからです。

彼らは愚かにも心の中で「神などない」といって、不法を行い、自分の利益のために貧しい同胞を搾取しようとしました。だが、「貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても 主は必ず、避けどころとなってくださる」(6節)といわれています。貧しい者たちに対する彼らの抜け目ない企みは、神御自身によって挫かれるといわれています。「主は必ず、貧しい人の避けどころとなってくださる」お方です。詩人は、預言者のように、この真理を、悪人たちに対する直接的な威嚇として、その顔面に投げつけます。神の現実に触れることによって人間の罪が露にされ、しかも絶滅することを、詩人は、「貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても 主は必ず、避けどころとなってくださる」という言葉によって明らかにしています。

そして、7節において、詩人は、私たちにその心の奥を垣間見せてくれます。エルサレムの指導者層の腐敗を目のあたりにして、彼の心には、神の民の運命を気づかう不安な問いが重くのしかかってきました。指導者たちがかくも傍若無人に振るまい、無惨に民の期待を裏切っている今、いったい民に誰が救いをもたらすのか?という問いがそれです。

しかし、この人間的な気遣いが彼の頭をもたげたのはほんの一瞬でした。彼は神を仰ぎ見ることによって、ただちに信仰が勝利を占めました。神の審きは、神の最終決定ではありません。さらに大きいのは神の恵みです。主はご自分の民の運命を転じて、それを新たな土台のうえに据えられます。神の審きは、「神などない」と言う悪人にとっては神の民からの排斥だけを意味しますが、信仰に生きる神の民の共同体にとっては救いの実現を意味します。

この詩篇を貫いている信仰は、赦しを賜る神の意思のうえに据えられています。彼は、人間の咎のためにたとえ前途が暗く覆われていようとも、神の恵みは、闇を突き抜けて光に至る道として開けていることを知っています。神は、この道を進み、悲しみを歓喜に転換されます。信仰の目は、澄んだ眼差しと確固とした足取りをもって神の現実を踏み締め、罪や愚かさと戦い、そうして神の審きと恵みの道を指し示します。その澄んだ目と確かな足取りの故に、この詩は、神に対する力強い確信を述べた貴重な証しとなっています。人生の歩みにおいてこの確信から得られる底力は、今なお、その結ぶ実を示すことができるのです。

旧約聖書講解