ホセア書講解

21.ホセア書10章1-8節『破壊されるイスラエルの罪』

10章には、「王位」と「祭壇」を扱ったいくつかの預言がひとつにまとめられている。最初の預言(1-2節)は、文化と祭祀の関係を明らかにしている。

「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木」という訳は、問題がある。「伸びほうだい」は、単に「茂った」であるから、無理に意訳する必要はない。ヤロブアムⅡ世の時代、経済的にも文化的にも繁栄したイスラエルの最後の栄光の時代であった。しかし、それは、つかの間のあだ花でしかなかった。ホセアは、いくぶん皮肉を込めて、イスラエルを実り豊かな茂ったぶどうの木にたとえ、イスラエルが栄えゆく民で、カナンに豊かな文化を実らせたことを語っている。しかし、イスラエルは繁栄するにつれて、その祭儀をカナン風に華麗にし、祭壇の数を増やし、カナンのバアルの聖所から採用した石柱を飾り立てた。

ホセアは、礼拝祭儀にその繁栄ぶりを現そうとしたその姿を、2節において批判している。「偽る心」は、「偽る」を補って訳している。「ふたごころ」とか「わかれた」という訳もある。いずれにせよ、ヤーウェに対する純粋な信仰と礼拝の態度がもはや見られない姿を、ホセアは、カナン文化を取り入れて華麗になった祭壇に見ている。ホセアは、イスラエルがカナンの文化に克服される危険を見ている。イスラエルは、カナンの地で文化と共にその地の祭祀を受け入れ、その宗教を受け入れていた。その結果、ヤーウェへの信仰と一体のものであることを放棄してしまっていた。ホセアは、それを彼らの「心」に表われていることを洞察している。その心がもはやヤーウェとバアルに分裂してしまっていた。ヤーウェ信仰の本質は、ヤーウェの命令に聞くことにあり、その完全な従順において表されるものであった。それは、礼拝の対象においても、形式においても、ヤーウェ信仰と異質なものを取り入れることをゆるさない「一つ心」を求めるものであった。だからホセアにとって、カナン文化と一体となった神信仰による祭祀的衝動は、きらびやかさによって神を満足させ、自分を満足させようとする高慢であり、ヤーウェの言葉に聞く心を欠いた人間のための祭儀利用であり、神利用でしかなかった。このような文化と祭祀の外面的豪華さの裏にある、ヤーウェへの信仰の内面的崩壊を、ホセアは見ている。

それは、結局、民を異邦の勢力の奴隷にしてしまうものでしかない。その文化と共に、その祭祀のけばけばしい豪華さを打ち砕くのは、神ご自身である。2節中段の「主は」のヘブル語原文は、「彼自身は」である。不真実な神礼拝が、永続するはずがない。なぜなら、「彼自身」(神)がそれを打ち砕き、偶像の「石柱」を引き倒されることを、預言者は暗示的に示す。

教会の外的繁栄に酔うなら、私たちもまた同じ過ちを繰り返すことになる。本当に主の御言葉に聞く民としてあるか、ただ主をのみ神として、主の望まれる姿で主への礼拝が捧げられているか、そのことがこれらの言葉で烈しく吟味するよう促されている。

3-4節は、「王位」に対する預言の言葉である。この預言は、イスラエルの国がアッシリアの侵入のため小さな残骸国家に縮少してしまったペカ殺害後(前732年)の時代、を背景にして語られている。イエフ王朝最後の王ゼカリヤは、わずか6ヶ月の支配の末に暗殺された。その後、イスラエル王国では、二度と王朝が建てられることがなかった。ゼカリヤの後20年の間に立った5人の王のうち、実に3人が暗殺されている。

イエフ王朝滅亡の頃、前745年に、アッシリアでティグラテピレセル3世が即位している。前734年、彼はシリア・パレスチナ地方を征服するために、南西パレスチナまで侵入し、ペリシテ人の都市ガザを支配下に置いた。これを脅威と感じたダマスコのレツィンとイスラエルの王ペカを中心とする多くのシリア-パレスチナの小国家は、前733年に反アッシリア同盟を組織した。ユダの王アハズにもこの同盟に加わるよう呼びかけたが、アハズが拒んだので、シリア・エフライム戦争が勃発する。アハズは、預言者イザヤの、ヤーウェを信頼しその助けを待て、との忠告にもかかわらず、アッシリア王に助けを求め、イスラエルとダマスコに対して行動を起こすよう嘆願した。ティグラテピレセルは、その年の内にイスラエルに出撃し、ガリラヤとヨルダン東岸全体を征服してしまった。イスラエル王に残された地は、エフライムの山地とサマリヤだけであった。ペカ王は、アッシリアへの敗北後にホセアに暗殺された。ホセアは、直ちにティグラテピレセルに降伏して貢ぎものを納め、アッシリアの属王として承認される。

3-4節の預言は、以上のペカ王暗殺後の事情を背景に語られている。ここで民は、「われわれには王がいない」といって、差し当たって王の指導を持たないことが、現在の苦難の原因となっていると弁解し、ホセアの非難を拒否していた。責任ある政治的指導者たちも民も、その責任を避け、混乱と苦難は、王とその「強い手」が欠けているために起こったと解釈することで、自らの責任を回避して、義務を免れうると思っていた。しかし、ホセアは、このような勝手な逃避を認めない。ホセアは、民の言葉を拠り所に、現在の苦境の真の原因を探求する道を示す。「主を畏れ敬わなかったからだ。」と。「だが王がいたとしても、何になろう」という民自らの言葉の中に、民の罪を自覚させ、主の偉大さを自覚させることによって、ホセアは民に全体の情況を判断する、正しい基準を与える。そもそも、イスラエルが王を求めた時、王なる主を退けた(サム上10:19)。そして今や、主に任命された王をも退け、あるいは暗殺し、主を恐れない民となった。イスラエルに王がないのは、そのためであり、主の命令によらないで王になった者は、権能を持たないことを、人々は認めている。このようにホセアは、自分自身を顧みない民に、神の前での真理においてこそ、人間の出来事と境遇の究極の関連に対して、目を開くよう求める。そして、この開かれた目が、人々が空しい希望を置いていた王の人間的な権力と実行力への、誤った信頼からも解放するのである。

王が示す実行力は、全く人間的なものに過ぎなかった。王も民と同じく、神への恐れをもっておらず、そのため明確な指導の進路を見失っていた。4節においてホセアが批判しているように、王たちがおこなっていたのは、多くの偽りの言葉と誓いを持って政治を宣伝し、外国の勢力と契約を結ぶことであった。ヤーウェの名による任命を受けた王の固有の任務は、公義を持って民を裁くことであったが、「毒草が生える」だけで、主の正義は失墜してしまっていた。王は、人間の権力の道具として政治を用い、本来その権威を正当化させるはずのヤーウェの権威を失墜させていた。ホセアは、神への信仰と深く結びついている、王制に対する道徳的宗教的拘束が顧みられないところでは、人間の欲望と混乱が現われ、その結果必然的にあらゆる面で崩壊が生ずる、という真理を「毒草」と言う言葉で強調している。

5-8節は、ベテルにある国の聖所の崩壊について語る預言である。

ホセアはここでもベテル(「神の家」)のことを「ベト・アベン」(「悪の家」)という。首都サマリアの住民は、ベテルの神聖な動物像(子牛)の運命におののく、といわれる。ホセアは、祭司のことを異教の祭司に用いる言葉で「神官」といって、その礼拝を取り仕切る者の不適格さと、礼拝の背教的性格とを明らかにしている。この偽りの祭司(神官)が、いくらその子牛像の「栄光をたたえても」、それが彼らに応えてくれるわけがない。今やこの神の苦難そのものが、民の憂慮の種となり、とめどない混乱へと導くことになった、とホセアはいう。この皮肉な叙述の中に、偶像の呪術宗教の無力さと不安定さが、ありありと示されている。ホセアはこのような皮肉をもって、偶像の魔力を打ち砕き、その威信を剥ぎ取る。

偶像の栄光の地に落ちた姿は、その像がアッシリアへのささげ物とされることによって、その無力さが、すべてのものに明らかにされる時に、完全に暴露される。今までこの偶像に向かって、民は贈り物を捧げてきた。しかし今や、大王への「貢ぎ物」となる、とホセアはいう。その時になって、エフライム(イスラエル)は、動物像で主なるヤーウェを拝することは、偶像に仕えていたのであって、たとえヤーウェを信じていたとしても、本当にヤーウェを信じていたのではなかった、と悟らされることになる。しかし、それは「嘲り」をともなってのことである。イスラエルの民は、自らの罪を認め、深い恥に刺し貫かれ、偶像を破壊することで、助け、そしてまた、滅ぼす力をご自身だけがもちたもう真の神の栄光を、ここに示されるのである。

ヤーウェへの信仰を欠いた、サマリヤの一時的な繁栄も、王の存在も、その偶像の最後のように、水泡のように消える存在でしかない、とホセアは語る。

そして、最後にもう一度、ホセアは「イスラエルの罪」を語る。偶像礼拝が行われた聖所の破壊について、ホセアは語る。かつて多くの人々が集まり、輝かしい祝祭が行われた祭儀の場は、不毛の地となり、荒地となる。かつて「高台」で、みだらな異教祭儀行為がおこなわれた。その民と、宗教の崩壊において、神の現実性を強く認識させた。しかし、その印象があまりにも強烈で、神の審きの内的外的な苦しみに耐え切れないと民は感じ、むしろ山や丘が崩れ落ちてきて、その恥を覆われたいと願うほどになる、との叫び声が起こると、ホセアは語る。ホセアは、このように、偶像礼拝に対して示される主の怒りの大きさを語る。それは、神の愛を語るホセアの言葉だけに、重みと迫力を感じさせられる言葉である。神の真実に反する民の背反に示される怒りは、どこまでも厳しい。この神の恐ろしさを、十字架のキリストもエルサレムに向かって語っている。ルカによる福音書23章30節において、イエスがこの言葉を引用して、エルサレムの終わりの審きの時について語っている。神の偉大さと神の大きな愛を拒む自分勝手な振る舞いに対して下される、神の最後の審きに、耐えれる人間はいない、とこの言葉は厳かな警告を与えている。

これは、よく実る「茂ったぶどうの木」とされているイスラエルに対する言葉である。主の民とされている者に向けられた言葉である。その礼拝に対する言葉である。わたしたちは、自ら捧げる礼拝が、主の恥とするものとなっていないか、その吟味が迫られている。主の愛にふさわしい、感謝を主の喜ばれる形であらわし、主の義を喜ぶ生き方において表すものとなるよう、呼びかけられていることを改めて覚えよう。

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