ヨシュア記講解

6.ヨシュア記7章1節-26節『アカンの罪』

ヨシュア記7-8章は、アイに対する二度の戦いを記しています。7章は、アカンの罪が原因で敗北し、その罪の処置のことを記し、8章は、アイに対する勝利を記しています。

アイに対する敗北の原因が、「滅ぼし尽くしてささげるべきこと」(ヘーレム=聖絶)の不履行にあるという点から見ると、7章は6章との関係が深いと言えますし、8章のアイに対する勝利がアカンの罪の処置を完全に行ったことと関係があるとすると、6章と8章はいわばコインの両面の関係あることを示しています。その関連で見れば、7章は「聖絶」という主題をめぐって二つの章を結ぶ重要な役割を果たしていると言えます。

6-8章の全体の要点は、イスラエルは主の民として神の命令(意思)に服従する時、約束された祝福に与ることができ、その命令に背けば、一個人であれ、民の一部であれ、民全体が裁きと呪いの下に置かれることを示しています。特に、これが聖絶命令である故に、それに対する不従順は、罪を犯したそのものへの聖絶を持って報いを受けねばならないことを徹底して示しています。アカン及びアコルの谷の記憶は、後の全てのイスラエル人、聖戦に参加する者たちだけでなく、律法に対する不服従がすべての人々に対する審きとなる教訓として理解されていたことが、26節の「それは今日まで残っている」という言葉において示されています。

さて、「アカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った」(1節)と言われていますが、それは、「一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板」(21節)です。6章18節で、「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ」、と言われていたにもかかわらず、アカンは、「聖絶」すべきものに手を出す罪を犯しました。ヘーレムすなわち「滅ぼし尽くすべきもの」は、主に属するものであり、あるいは聖なる「禁止区域」に含まれるものを指しています。

この度は、全くアカン一個人によって犯された罪でありました。しかし6章18節は、その罪がもたらす災い、主の審判は、「イスラエル宿営全体を滅ぼす」ものであることを明らかにしています。神とイスラエルとの契約の交わりにおいて、個と全体の連帯性はモーセやヨシュアの様な指導者と民の間だけでなく、民の中の一個人の場合にも及ぶ問題です。これはサクラメンタル〈典礼的〉な意味では、神に対する違反、背信行為であり、神に対する直接的な犯行でありました。

この聖絶における神学的命題(6章18節)から、聖絶違反の原因となったすべてのものを除去し、潔めの儀式を行わなければ、イスラエルは主の審判を免れえないことが示されています。

ヨシュアは、アイ攻撃に先立ち、エリコの場合と同じく数人の斥候を遣わし、アイを偵察させました(2節)。斥候たちは、「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません」(3節)と報告し、それを聞いたヨシュアは三千人をアイに攻め上らせました。エリコからアイまで18約キロ、975メートル程登ります。三千人の精鋭は勝利を確信して攻めのぼりましたが、アイの人々の攻撃を受け、36人が撃ち殺され敗走しなければなりませんでした。これを見た「民の心は挫け、水のようになった」(5節)と言われますが、2-5節前半には、主が語った言葉はありません。すべては、神の事としての行動ではなく、人間の事としての判断に基づく軍事行動としてアイ攻撃はなされました。

5節後半から9節は、神なしでは、神に属するものとされた民の行動も、その構成員の一人としての行動も、うまくいかないことを認知させるものとして記されています。ヨシュアが「衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった」行動は、彼の抱える問題の深刻さを表しています。イスラエルの長老たちと共に、という言及は、それが共同体全体の行為であることを示しています。

9節のヨシュアの訴えは、この敗北が、敵の前でヤハウエの威信が危機に陥るものであることを示しています。しかし主は、ヨシュアのこの訴えには応答せず、「立ちなさい」といって、その敗北が、不当にもヘーレム(聖絶すべきもの)に手を出したイスラエルが自らヘーレムとなったことを明らかにされます。聖絶されるべきものを奪い取る者は、聖絶されるべきものによって自ら奪い取られる者となる、という結果にならざるを得ないのです。

しかし、13-15節において、深刻な状況から逃れる道が提示されています。混乱した秩序を回復し、聖絶されるべきものをもとの場所に戻して、聖なるもの俗なるものとの間に改めてはっきりとした区別を付けるという方策が伝達されました(レビ10:10)。そうすれば、混乱に陥っているものが回復でき、敵の前にしっかり立つことができるようになります。

新共同訳聖書が「主の指摘」と訳している聖絶命令違反者捜しは、籤で行なわれました(16-20節)。神の裁定をくじで決めることは、旧・新約聖書に見られる方法です。籤はアカンに当たりましたが、これで事件が解決したわけでありません。犯行者は告白によってヤハウエに「栄光と賛美」を表すことが求められます。ここで注目されているのは、その罪の神学的な意味です。

アカンが盗んだ品物とそれを隠した方法とが明らかにされ(21,22節)、それは、「ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげ」(23節)られ、主と民の前に白日の下に置かれました。

ヨシュアは、その品々をアコルの谷に運び、アカンに向かって、「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)」(25節)という判決を下し、「全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺し」、聖絶しています。ヤハウエの神聖な権利を侵す犯罪に対しては、火刑が要求されました。この場合、火刑は完全な罪の贖いであり、実際、聖絶の律法によって行なわれています(申13:17)。聖絶されるべきものとなった集落と品物は「ヤハウエのための全き献げ物」となり、「永久の廃墟の丘」(テール オーラーム)とならなければならないのです。25,26節はそれに応じた処置がなされたことを報告しています。

イスラエルの歴史において、アカンの出来事は祭儀伝承を作り上げました。そして25節前半の言葉は慣用句の様に謳われたのかもしれません(出エ15:1参照)。今日でも、正統的なユダヤ人は、ケデロンの谷にあるアブサロムの墓に石を投げつける習慣がありますが、それと似た行為である、と言えなくはありません。

ヨシュア記で論じられている聖絶の問題は、典礼的礼拝の問題として、イスラエルがどのように神の言葉、神の意志に聞き従うべきかを教える意味を持っていることを理解することが大切です。礼拝そのものがそのようにして捧げられ、それが主の民としての生き方と一体のものとして求められていることを理解することがわたしたちの求められている大切な点です。

旧約聖書講解