イザヤ書講解

7.イザヤ書3章1節-4章1節『主の日における審判と残りの者の救い』

3章1節-4章1節は、来るべきエルサレムの理想の姿とは対照的な、堕落しきったエルサレムの現実を、2章6-21節に続き、描いています。ここには、2章6-21節で述べられた宗教面での堕落が、社会の荒廃を伴うものとして描かれています。

先ず3章1-15節で、イザヤは、エルサレムとユダに対する審判を、エルサレムとユダの貴族階級に向かって告げています。貴族たちはイザヤから有益な箴言か助言を期待しましたが、イザヤの告げた言葉は、真に厳しい神の審判でした。

内外の敵に悩まされる状況は何処にも存在しないように思える平和と繁栄を享受していた時に、イザヤはこの預言を語りました。イザヤは聞き手がどう思っているかという心理的な動きに何の顧慮も払いません。預言者はただ神から託された言葉を告知します。主にのみ依り頼まないで、人間に支えを求めて生きるエルサレムとユダは、「支えとなり、頼みとなる者を取り去られる」と言われます。万軍の主を捨てるものは、万軍の主によって捨てられる、これがイザヤの使信です。

パンと水は物質的支柱です。勇士と戦士は軍事的支柱です。裁きを行う者は、法律の守り手であり、政治的支柱です。預言者は神の律法の守り手で、宗教的支柱です。神はこれらの正当な手段による支柱を取り去るだけでなく、彼らが当てにしていた怪しげな手段による占い師、そして長い人生経験を持つ長老さえも取り去ると言われます。

この国は、自然の知恵で武装した助言者も、超自然的な知恵の力で武装した助言者も見出せなくされる。このようにして柱を失ったエルサレムとユダは、教養も経験も卓越した人物が不在になり、恣意的な行動しか取れない若者が新しい支配を確立するために指導者として駆り出されることになります。

その結果は、3章4-7節に記されている混乱以外の何物でもありません。長幼の序も、社会秩序も完全に破綻して、混乱を解決すべき指導者が居なくなるという最も悲惨な現実を招くことになります。打たれた傷が余りにも酷いので、何処から再建したらよいのか誰にも判らなくなりました。それゆえ、たとえ人々が、指導的地位についてほしいと思う人がいても、その人はこれを解決する知恵も物質も持っていないからといって断るようになると言われています。

こうした無政府状態では、法の番人は居ても、人の顔色を伺い、平然と裁きは曲げられ、その誤りを指摘しようとする者には、平然と居直る有り様です。人間の力に頼るものは、人間の力によって失望させられ、どうしようもないところまで行き着きます。何故そうなるのか、彼らが、万軍の主を捨てたから、主が彼らをそのように見捨てられる事によって、人間の力に依り頼むことの空しさと愚かさを教えるためである、とイザヤは告げています。

しかし、イザヤは主の審きだけを語ったのではありません。主の裁きは両義的な側面を持っています。主は人間の力に依り頼む愚かさを裁く事によって、神の義と栄光を現す救いをもたらされます。無秩序と混乱の中で、救いの希望を持つことが出来るとすれば、それは徹底的な審きを行われる方の栄光を信ずる以外にありません。 政治的にも社会的にも望みがないと思える闇の中にも、主の「栄光の目」は注がれ続けています。主の手の中で、その不義を裁かれ尽くすことによって、主による再生の道は開かれます。

主による再生以外に、救いの希望は見出されません。指導者の罪の被害はその民に及びます。指導者たちの背信の罪は裁かれますが、民はますます苦しむことになります。しかし、イザヤは、聖なる神が、何時までも御自身が嘲笑の対象とされることを欲しておられていないことを知っています。神の審きは必ず来ます。国の破滅は愚帝を生み出し、また愚帝は亡国の運命を導きます。国の興亡は何よりも先ず指導者の能力とその責任意識とにかかっています。それゆえ、主の怒りと審きの言葉は、先ず為政者に集中して示されます。そして、主の深い嘆きと憐れみは「わが民よ」といって、苦悩の中にいる無告の民に向けられます。

権力を欲しい儘に振る舞う「幼子」(12節)という表現の中に、イザヤはアハズの悪政を予見していたのかも知れません。権力の座に着く「女」の例は、イゼベル(列王上21:5以下)やアタルヤ(列王下11:1—3)にみられます。こうした悪政の原因となる指導者だけでなく、それを利用してその利権を貪る者たちも共に、糾弾されなければなりません。彼らは人間の糾弾をかわし続けることができるかもしれませんが、「主は争うために構え」、「民の長老、支配者」を裁かれます。

主は、地上の世俗の権能を認めておられます。しかし、その権能を与えられている者は、主の葡萄山の雇い人だといわれます(14節)。雇い人は自分自身のために働くのではなく雇い主のために働くものです。ところが彼らは葡萄山を自分の所有物であるかのように見做して、恥知らずにも、そこから葡萄を摘み尽くしてしまいました。貧しい人々の保護と福祉のためにその職に任ぜられた彼らが、ありとあらゆる手段を用いて貧しい人々を経済的に圧迫して、彼らの人間としての誇りを奪い取ってしまったのです。

そこで主は、告発者、その罪の判決と刑の執行者となられます。権力の濫用によって社会秩序が解体して、破局していくその背後に、事を正す神の手が隠されています。最後まで主の救いを信じて、神の言葉に従って歩む「残りの者」を主は残し、顧みを与えます。主は、すべての者を審きの座に立たされますが、主を信じるものには、審きは救いであるのであります。

3章16節-4章1節は、高慢なシオンの娘の最後について語られています。ここには何の妨げもない経済的繁栄と外見上安全な、ある時代が前提されているので、この言葉はシリア・エフライム戦争以前のものであると思われます。

内面は空虚でただ安物のピカピカ光る装身具と、男性をとらえることばかり気に掛けているエルサレムの婦人たちの生活は、神の審判を不可避な状態にしていました。「首を伸ばして歩く」(16節)のは、周囲を見下す高慢な態度です。男性の気を引くために、「色目を使い」、「足に鈴をつけ」りんりんと鳴らして歩いて、しかも小股で気取って歩くことばかりに注意する、虚飾に満ちた空しい生き方をエルサレムの娘たちはしていました。こうした「虚飾の花」による男女の恋愛が成就したとしても、其自体が「虚飾の愛」でしかありません。体には、香水が塗られて、芳香を放っているでしょうが、その内面は御言葉による深い信仰の香りと輝きを失った空疎な状態です。

「それゆえ」と主は言われます。主は美しく着飾ったシオンの娘の頭を、皮膚病でかさぶただらけにし、脱毛させて、美しさを誇っていた額の前髪が敵の手によって切り取られ、不細工におでこ丸だしにされます。「これはバビロニアで男女ともに行われている服従と重い罰のしるし」です。

3章18-23節は、シオンの娘たちが身に着けていた装身具の目録ですが、一人の人がこの全ての装身具を持ち合わせていた訳ではありません。21もの装身具の目録を上げていること自体、いずれにせよ、古代オリエントの女たちのファッションの洗練度が、現代社会の洗練度と勝るとも劣らないものであったことを示しています。

しかしイザヤは、これらのリストを煮えたぎる怒りの中で語っています。こうした飾り物はことごとく取り去られ、香水によって芳香を放っていたその体は、皮膚病のためか腐った悪臭を放つようになり、帯は荒縄に変えられ、美しく結い上げられた髪は禿げ、晴れ着は荒布の腰巻きに変えられます。これは、女性にとって喪服と悲しみの印です。

3章24節の最後は、「美しさは恥に変わる」と訳されていますが、これは「焼き印」と訳すことができます。焼き印は奴隷に対して所有者が財産のしるしとして顔に押されました。イザヤは、栄華と贅沢を極めた高慢な女たちへの厳しい審判の結末をこのように告げているのであります。

イザヤは自分の民の将来を、女たちの振る舞いの中に見ています。祭司や礼拝者の上辺だけの礼拝行為と偶像礼拝の末路を預言するだけでなく、自己繁栄しか求めない為政者の偽善も断罪したイザヤは、国の滅亡とその暗い将来に対する責任は、女たちの生き方にも在ることを、冷静に見ています。国は一人あしき為政者の暴政によってのみ滅びるのではありません。政治に直接関わらない民の宗教生活の破れと、女たちの虚飾の美と愛に生きる生活の中にも、亡国への影が忍び寄って来ることを警告しているのであります。

「その日」と18節で言われていますが、それは、主の審判の日のことです。その日、女たちが経験する悲惨は、単に贅沢や富への審きではなく、ここで、この女たちの生の在り方そのものが、民族の滅亡へと導く原因であると理解されています。生命の創造者、歴史の主への畏敬のない民族と国家に、希望ある未来はありません。与えられたその命をそのままに生きよ、と主は言われます。もし、着飾る必要があるとすれば、それは、御言葉で着飾るべきでしょう。

シオンの男たちは、「シオンの城門」を通って出陣し、闘いに勝利してこの城門を凱旋するはずでした。しかし、シオンの城門はその喪失を嘆き悲しむ場所となりました(25-26節)。

エルサレムは男たちを戦乱で失い、戦士も戦場で死に、女たちの多くは、外国に売られていきました。エルサレムに残った女たちが、外国に売られていった女たちの運命よりも望ましいものだった訳でもありません。7人中6人の男性が戦死し、その数が極端に少なくなりました。そのため7人の女が、生き残った男性一人に、なりふり構わず所有されることを求め、社会的生活の保証を得ようとする現実が語られています。女たちは、男の名で呼ばれれば、衣食は自分でまかなうつもりです。滅亡の廃都で誰の所属にもなれないで恥を負って投げ出されるより、奴隷でもいいから、誰かの名で呼ばれたいというのは、女たちのぎりぎりの願望でした。イザヤは、権力の濫用と、女たちの享楽的で感性的な振る舞いが、契約の民の内的秩序を解体し、神の厳しい審判を不可避なものとしたと語ります。

しかし、この箇所で見逃してはならない重要な点は、女の振る舞いに対する預言者イザヤの鋭い批判が、実は女性を責任ある人間として認めていることです。女性には、男性に比べて少ない権利しか与えられていないとしても、なお神の前における態度によって、その民の将来に、女たちは、共同の責任を負っていました。現実に女たちは、自ら招いた不幸の恥を取り除いてくださいと叫ぶほか何もなしえませんでした。「その日」、神の審判が成されます。この女たちのように、恥辱で苦しむ多くの魂が、恥を取り除いてくださいという叫び声が今も聞こえます。確かに、「その日」(4章1節)は、この種の恥辱から解放される日です。キリストに属するものに、キリストがしてくださる解放があります。

その日はキリストにのみ属することによって「恥」を除かれる日であります。この女たちのように悔い改めない叫びでなく、キリストにある悔い改めの叫びを上げるものに、主は「その日」、恥を私たちの人生から取り除き、平安を与えて下さいます。それは虚飾の花でなく、御言葉を着飾る者に与えられます。主の審きを、審きとして聞き、主に立ち帰って聞く者に、主はまた救いの道を用意されます。いつの時代にあっても、主の審きを知らない、恐れのない信仰には破滅しかありませんが、主に立ち帰る者には、なお救いがあります。審きの言葉は、救いへの招きであることを覚えることが大切であります。

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