イザヤ書講解

10.イザヤ7:1-17『信仰への決断』

7章-12章が基本的に問題にしているのは、アッシリアという世俗的な力に頼るか、それとも主に頼るかという点です。7章は、アハズ王がアッシリアに頼ることを選択し、将来の破滅につながる結果を招いたこと明らかにしています。しかしそれでもなお、神が、生き残っている者となった民と共におられるという希望が語られています。この希望は、二人の子の名、即ちシェアル・ヤシュブ(「残りのものは帰ってくる」)とインマヌエル(「神は我らとともにおられる」)という名において示されています。そして「子」という主題は、9章5-6節まで繰り返され、新約につながる、来るべきメシヤ像を明らかにします。

7章は、前735年のシリヤ・エフライム戦争を背景に語られています。北の大国アッシリヤが攻めてくるというので、パレスチナ周辺の弱小国は、脅威にさらされ、同盟によってその侵略の脅威から自衛しようとしました。

アラム(シリヤ)の王レツィンとイスラエル(エフライム)の王ペカが反アッシリア同盟を結び、ユダにもこれに加わるようにとの呼びかけが、ヨタムの時代になされました。しかし、独自の道を追い求めていたヨタムは、この呼びかけを断りました。ヨタムが死に、その子アハズが継ぐと、力づくでこの同盟に加わらせようとして、この二つの国は攻めてきました。そこで、アハズ王は、信仰的・政治的な決断を迫られることになりましたが、1節には、この危機的状況の中で、一つの希望的光を示す状況が語られています。レツィンとペカがエルサレムに攻め上って来たが、「攻撃を仕掛けることができなかった」と記されています。この句は、シリヤ・エフライムの同盟軍がエルサレムを包囲することが出来たが、攻略できなかったことを示しています。それは、何よりも神の守りの御手によって、エルサレムが守られたことを暗示しています。それゆえ、その危機的状況の中で、アハズ王は、ただ神を信頼すればよかったのです。

しかし、2節には、アラムとエフライムが同盟したというニュースが伝えられると、「王の心も民の心も」パニック状態に陥ったことが明らかにされています。この情報は、「ダビデの家」にのみ伝えられたのですが、王家の中だけの秘密にしておくことが出来ず、民全体に知れわたることになり、国内はまるで林の木々が強風に煽られてざわめきだすように、王も国民も動揺した、といわれています。

その時、イザヤは、その子、シェアル・ヤシュブを連れて、動揺するアハズ王の前に立ちました。イザヤは、主から、「布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れ」でアハズに会い、主の言葉を告げるように命じられました。アハズ王は、エルサレムが敵軍に包囲された時、水を十分確保できるか心配してそこに行っていたからです。アハズは自分の力で、この窮状を切り抜けようとしていました。

しかし神は、アハズ王に、人に命を与え、かつその命を維持させることが出来るのはご自分のみであることを知らしめるために、イザヤを彼のもとに遣わしました。イザヤが一緒に連れていった、その子シェアル・ヤシュブは「残りの者は帰ってくる」という意味を持ち、この子の存在と名自体に、国の将来を物語る啓示の意味がありました。主の言葉に聞かず、主を信じないアハズとその王国の歴史の最後は、滅びるしかないが、イザヤが連れている子シェアル・ヤシュブは、そこでただ一人の生き残った者だけが破局から救われ、悔い改めるであろうということを、知らしめる意味をもつ名でありました。

4節の「静か」(ルーヘ)という言葉は、神の現臨と民の信頼によって保証されている状態を包括する概念です。戦いは神の御前でなされていること、敵は既に神の手中にあるという信頼をイスラエルに求められていました。イザヤは王の前に進み出て、主を信頼し、主に委ねるようアハズに促しています。

真に恐るべきは人ではなく神です。人間の目にアラムとエフライムがどの様に映ろうとも、神の目には「燃え残っているくすぶる切り株」(4節)にしかすぎません。イザヤは、レツィンとペカの計画が、人の計画であって神の計画はでない故に実現しないことを語ります(7節)。アラムとエフライムは、連合に加わらないアハズに代えて、タベアルを立てて傀儡政権を立てようと試みましたが、それは神の意思によってくじかれると大胆に語られています。

神は人間の行動に対して答えられるお方です。神の意思に合致しない人のお喋りと違って、神の言葉は動かしがたい現実をつくり出します。この愚かな同盟者たちが、ダビデ王朝に対して壊滅的な打撃を与えようと身構えているときに、主なる神は、「それは実現せず、成就しない」という決然たる意思を示されます。

地上のどの様な強大な者も、神の掌中にあります。それゆえ、現状が人間の目にどれほど悲観的、絶望的に見えても、神はその現状を切り開き、変えることができます。現実の歴史の中で、徹底して神の言葉聞き、現状の困難さえ悲観せずに、神に委ねて生き抜く信仰が人に求められています。それゆえ、歴史を支配したもう主を信じきることが、アハズに求められました。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」というイザヤのこの言葉は、今日の私たちに対しても語られています。

しかしこのイザヤの勧告にもかかわらず、アハズは、アラムとエフライムが最も恐れていた、アッシリアという世界強国に助けを求めました。そしてそれは、自国の将来を破滅に導く決定的な原因となりました。

イザヤは、自ら語った預言が聞き入れられなかったにもかかわらず、諦めずに再び神の使命を持って王の下に赴きます。ここで、「更に」語りかけられている意味は重いのです。一度語って悔い改めない者に「更に」語りかける忍耐と愛に満ちた神であることが示されているからです。

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(11節)とイザヤはアハズに向かって語ります。主は、ここでアハズに対して「あなたの神」として示し、彼への親近感を示しておられます。主がアハズに与えたしるしは、インマヌエル(「神、われらと共にいます」の意)です。これは、アハズの取るべき態度を示していますが、アハズが示した答えは「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(12節)でありました。

アハズの答えは、表面的に見るかぎり、敬虔な態度です。主イエスが荒野で悪魔の試みに会われた時に、同じことを言われました。神を試みることは人間のすることでなく、人間を試みるのは神です。それが聖書の根本思想です。新約聖書は、しるしをもとめることは不信仰の意味で語っています。しかし、ギデオンの場合、しるしを求めることは不信仰として退けられてはいません。聖書はこのように、しるしを求めることが不信仰のしるしであることもあれば、しるしを求めないことが不信仰のしるしになることもあることを示しています。この識別は結局のところ、人間が自己の未来を神に委ね、神の意思に服従する意思があるかどうかにかかっています。

アハズの場合、外面的敬虔さが内なる不信仰の同居を示す例となっています。生ける真の神の呼び掛けに、人間があくまでも自己たろうとして伝統的な敬虔さの中に身を隠すことによって、神の前になすべき信仰の決断を回避することだってありえます。この場合、アハズ王は、事柄をあくまでも神の意思によってではなく、人間の知恵で、自分の判断で、解決したかったのです。アハズ王は、アマツヤがアモスのことをそう見たように、イザヤを国民の広範な層に影響を及ぼしうる狂信家と見なしました。それ故、アハズはこのように信心深そうな答えをすることによって、宗教的に興奮しやすい大衆に注意を払い、密かに決めている自分の計画を実行しようとしたのです。アハズ王は自分の決定を討議に付すことも、神に問うこともせず、従って、しるしのことも取り合おうと致しません。

アハズ王とその取り巻き連は、自分たちの政治的企てを隠すための口実として、敬虔さを装いました。そうすることによって、神よりの具体的呼びかけを聞き流し、神から離反する者となりました。イザヤは、このアハズの不信仰を知って、もはや神の忍耐のときが過ぎ、神が審きをもって介入されることを確信します。

イザヤは、この背信のアハズ王とその側近のものに向かって、「あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。」(13節)とその激しい憤りをあらわにしています。

しかし、しるしを求めないアハズにむかって、主が自ら彼らにしるしを与えられると告げ、イザヤはインマヌエル預言をしています。ここでは、この預言は、信仰を持って主にしるしを求めない者に与えられるしるしとして語られています。主を信じない者は確かにされず、裁かれるほかありません。しかし、主はその背信の民をなお愛し続ける、インマヌエルの神としてご自身を示されます。それは残りの者を帰らせ、その者たちにご自身をインマヌエル「神はわたしたちと共におられる」という現実を、恵みによって実現される約束として語られています。それは当時の人々が一般に理解したのとは全く違う意味で語られました。

この預言がなされるまでの、インマヌエル(「我等と共に、神がいます」)は、歓喜と勝利の歌声として理解されていました。アハズはシリヤ・エフライム同盟軍からの脅威をかわすために、彼らが最も恐れるアッシリアと手を結び、勝利し、その脅威からユダ王国を解放することに成功しました。その時、シリヤ・エフライムの脅威からの解放は、正にこのしるしの成就だと思って人々は心底から歓声を上げて喜んだことでしょう。

しかし、真実の意味で、どんな人間がインマヌエルの名を担うに耐えることが出来るでしょうか。現実の歴史はそれを担いうるものがいないことを示しています。シリヤ・エフライムの脅威からの解放されたとき、おそらくユダの多くの人、特に女たちが、生まれた男の子にインマヌエルの名をつけたに違いないとおもわれます。確かに、生まれた子供たちが二十才に達するまでに、ユダに驚異を与えたアラムとエフライムの両国は、アッシリアによって滅ぼされました。アハズが恐れる「二人の王」レツィンとペカは、滅ぼされました。預言者は、同盟によって画策するこれらの王たちの滅亡を確信します。しかし、イザヤは「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」(17節)と語って、「アッシリアの王」が「二人の王」よりも危険な存在であることを告げ、ダビデの家にもたらされる審判の不可避なことを明らかにします。

「エフライムがユダから分かれて以来」とは、ダビデ王国の分裂以来ということです。つまり、アハズが神の恵みに期待せず、徹底して人間の業として生き抜いたその努力からもたらされた代償は、アハズが頼ったアッシリアの王によって滅ぼされるというものです。人々がインマヌエルと名付けた子供たちは、20年後には新たな恐るべき戦争の敗北を経験し、王の不信仰のその責任は、民全体に対する神の審きとして及びます。生き残った民は、遊牧と小家畜で、辛うじて生活できる悲惨な状態を経験します。「凝乳と蜂蜜」(15節)は、荒野時代に理想の食事として期待されました。しかし、カナンの農耕社会に育った若者たちにとって、それらはもはや粗食にしか過ぎなくなっていました。彼らの生活は、かつての荒野時代に逆戻りする、困窮の時代が再び来ることをイザヤは告げます。

しかし神はそれでもなお、インマヌエルの神として、恵みを与えます。残りの者として帰って来た者に、ご自身を示されるという約束が、ここで希望の言葉として残ります。

しかしながら、この意味でのインマヌエルの成就は、イエス・キリストの出現まで待たねばなりません。罪に逆らう者に、なお恵みを施し、彼らの中に残りの者の帰還を約束し、そのものたちに、神はご自身をインマヌエルとして彼らに与えることを約束されます。この神の変わらない約束こそ、わたしたちの救いの希望です。この約束を誠実に果たされる神こそ希望であることを告げ、イザヤは、現実の悲惨さや希望のなさに心を奪われずに、落ち着いて静かにして、神の約束を信ずべきことを、王と民に求め、信じなければ確かにされないことを告げます。インマヌエル預言は、ここでは、危機の中で、神を求め、信仰に生きる者に、希望を与える言葉として語られています。キリストは、インマヌエルの神として、わたしたちの間に救いをもたらされます。しかし、それは、主の約束を信じて静かに待つものに与えられる神の恵みの救いとして実現することを覚えることが大切です。

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