申命記講解

11.申命記9章7節-29節『主に背き続けるかたくなな民』

申命記9章7節~29節の説教は、「あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」、という過去の歴史を総括する言葉ではじめられています。

この説教をするモーセは、神の山ホレブで十戒を授けられた民と神との間を取り次ぐ仲保者として、「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」(申命記5章3節)主の言葉を告げています。傍点は、モーセは後の時代を生きる者にも、そのような神の言葉の取り次ぎをする唯一の仲保者であることを示しています。申命記において、モーセと民とは、「どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します」(5章27節)という関係にあります。その関係性は時代を超えて保持されているという信仰の認識を求めています。

それゆえ、9章7節の歴史を総括する言葉は、エジプトとの関わりを暗示しています。それはヨシヤ王の死後(前609年、メギドの戦いで戦死)に直面した改革の挫折とユダ王国を襲ったヤハウエ信仰の危機の根本原因を洞察するために用いられています。ヨシヤ王の死後、ユダ王国の王となったエホアハズがエジプト王ネコによって廃位され、ヨヤキム(エホヤキム)が傀儡王として任命されますが、そのヨヤキムがエジプトへの反動に転じたことに対する厳しい批判の声がこの説教の核になっています。それは、ホレブでの十戒受領の出来事(5章)をここで再び取り上げることによって、回顧されています。神の指で記された十戒の二枚の石板を「契約の板」(9,11,15,17節)と呼ぶのは、画期的な契約理解を示します。「神の箱」(サムエル上4―6章、サムエル下6章)は、申命記では「契約の箱」(10:2,3-5)とされています。

この説教において、民の堕落への痛烈な批判が「鋳像を造った」ことへの言及によってなされています。エルサレム神殿に異国の神像が建てる行為であったからです。14,15節の1人称単数形は、「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。わたしを引き止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする」(13,14節)と主ご自身の言葉であることを示しています。そして、「あなた」は、モーセを指し、モーセの時代に与えられた選びを撤回し、もう一度その子孫から主に従順な民を創造するという主の決意が語られています。

「子牛の鋳造」(16節)は、ヨシヤ王の死後、改革の理念が直ちに捨てられたことを暗示するものとして言及され、それは、エジプトの神々の像や、民間信仰の復活に重ね合わせて語られています。二枚の石板が投げつけられ、「あなたたちの目の前で砕かれた」のは、ヨシヤ王の改革の挫折という危機的な状況を示しています。改革の挫折と共に、担い手の中には職を求めて妥協し、偶像崇拝を伴う聖所につとめた者もいたかもしれません(12:4)。

ここで「あなたたち」と呼びかけられていのは、全イスラエルではなく、モーセに従う「あなたたち」のことです。

モーセが不在の間に生じたモーセの弟アロンの罪ととりなしの祈り(出エジプト32章)に対する言及は、ヨヤキム王の治世に復活した偶像崇拝を批判するためです。モーセの不在の間に生じた事件と、ヨシヤ王の死後、直ちに改革の理念を捨て去った罪は、「エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」罪として、想起され、厳しく戒めるために語られています。

「主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。あなたの僕、アブラハム、イサク、ヤコブを思い起こし、この民のかたくなさと逆らいと罪に御顔を向けないでください。我々があなたに導かれて出て来た国の人々に、『主は約束された土地に彼らを入らせることができなかった。主は彼らを憎んで、荒れ野に導き出して殺してしまった』と言われないようにしてください。彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です。」(26節~29節)

このモーセの祈りは、摂理の問題にからむ神義論(*)的な問題を含んでいます(出エ16:3,17:3)。このモーセの言葉は、改革の担い手たちが危機意識や、二人称複数形を用いて編集を行った者たちの信仰の問題に触れているはずである、と鈴木佳秀は指摘しています。

*神義論thodicyという概念は、ライプニッツの著作に表された用語で、ギリシャ語のセオス=神とディケー=正義の合成語で、神が全能であり善であるとするなら、その神の創造によるこの世界はやはり善であるはず。しかし、世界に生起する災難や不公平と存在者の苦悩やよこしまな思いは様々な悪の様相を呈している。それは全能かつ善なる神への信仰と現実観察との間に苦しい葛藤が生じ、同時に両者を問わせる要請が生じた。この調停の思索が神義論あるいは弁証論と呼ばれる。

「御顔を向けないでください」は、活ける神についての表象として用いられています。カナンの神の顔は固定された神像の顔ですが、ヤハウエの顔は、人が目にする固定された客体としてではなく、常に動的に描写されています。ヤハウエはその御顔を隠される神としても描かれています(イザヤ8:17、詩編22:25など)。

この説教で述べられている、主に背き続けるかたくな民の問題は、実に今を生きるわたしたちのかたくなさの問題でもあります。神の言葉の導きに従うことを第一としない信仰は、常に虚偽の偶像に支配される危機にさらされます。それは、時代におもねる、その時代を支配者におもねる罪として現れます。そこに人間の弱さがあります。しかし、その弱さ、罪から解放されるために与えられたのが、主の御言葉(十戒)です。主の御言葉に対する信従こそ、そうした偶像から解放し、真の自由と喜びの中に生かす、活ける力として働くことを覚えることが大切です。そのために、どの時代にあっても、モーセの様な預言者がいつも近くにいて、主の義に立つ歩みをするよう語りかける必要があるのではないでしょうか。

旧約聖書講解