ホセア書講解

4.ホセア書2章4-15節『イスラエルの背信』

ホセア書2章4-15節は、神との契約を忘れバアル宗教の祭儀へと走っていった背信のイスラエルに対する神の審きを語っている。8-9節は、元々は15節の後ろに続いていたと思われる。この部分は16-20節と共に審きによる神の教育的意図を、新たな契約の目的と共に取り上げているので、一緒に扱う方が理解しやすい。

さて、4、5節は、背信のイスラエルに対する叱責と警告の言葉が記されている。ここで呼びかけられているのは、「子ら」としてのイスラエルであり、イスラエルの民の一人一人である。ここでは、イスラエルの子らはその母イスラエルと区別されているが、個別的な見方と集合的な見方とが交互に現れていて、聞く者に判断を呼びかけている。ヤーウェはイスラエルの子らに、「母」イスラエルを「告発せよ」と命じている。これは、ヤーウェが民の一人一人にその共通の罪を糾明させ、かつその償いをさせるためであった。女性単数形から男性複数形に突如として変わっているのは、母であるイスラエルと、その子らであるイスラエル人とは、本質的に同じであることを示している。

神はイスラエル人に、自らの民に対して「告発せよ」と呼びかけ、訴訟するよう求めておられる。このように呼びかけられる民の心に、神への忠誠と背反との葛藤が沸き上がってくる時、この訴訟の意味が彼らにはねかえってくる。

預言者ホセアは、ヤーウェとイスラエルとの間にある契約を前提としてこの言葉を告げている。ホセアは、ヤーウェとイスラエルとの間にある契約を、結婚の比喩で語っている。その結婚関係は民の罪のために破れる。「彼女はもはやわたしの妻ではなく わたしは彼女の夫ではない」(4節)という離婚の宣告の言葉が告げられる。

だからといって神は民を棄てたわけではない。娼婦の装いと淫婦の跡を除くように、との警告が続けられているからである。ここに訳されている「淫行」と「姦淫」とは、娼婦が人の注意を引くために身につけている耳輪や首飾りなどの装飾品、または刺青をさす。「彼女はもはやわたしの妻ではなく わたしは彼女の夫ではない」という離婚の宣告がなされたあとに続く、娼婦のしるしである装飾品や刺青を取り除けとの勧告は、神は民を棄てることを目的にしているのではなく、これが悔い改めの呼びかけであることを示している。

そして、5節に条件付きの威嚇の言葉が続く。この言葉は民が悔い改めてその堕落から立ち帰って来ることの可能性を予想している。この審きを告げる神の言葉は、審きの真剣さを示すと同時に、神はどこまでもこの民を求めておられる、という愛の表現でもある。

「さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし…」(5節)という威嚇は、イスラエルの恥じと罪を自覚させるためのものである。不誠実な妻は、娼婦が裸にされてさらし者にされるように、それにふさわしくされるといわれる。しかし、5節の後半は、「彼女を荒れ野のように…」と地についての威嚇となっている。イスラエルの民はカナンに定着後間もなく、カナンの農耕文化の豊かさにあこがれ、それと深く結びついたバアル宗教の豊穣祭儀にも憧れを抱くようになった。その豊穣祭祀はイスラエルを神ヤーウェから叛かせる原因となった。イスラエルがバアルの豊穣祭儀に加わったり、真の神、主に対する礼拝にそれを取り入れ続けるなら、彼らが期待しているのとは全く逆に、土地は何の実りももたらさなくなる干ばつの飢饉に見舞われ、イスラエルは飢えと渇きで死ぬことになると威嚇されている。

6、7節は、「子ら」について3人称で語られている。4節で「母を告発せよ」と呼びかけられた「子ら」もまた神の審きを免れ得ない者であることが語られている。ホセアは7節の叱責の言葉において、イスラエルが卑しい娼婦に劣らず、破廉恥にも背信の罪を犯し続け、その恋人たちの後を追っていくことを記している。

イスラエルの民は、バアル宗教の祭儀とイスラエルにおけるヤーウェ宗教における祭儀との間に何の区別も感じていないが、ホセアはこの両者が根本において互いに斥け合う対立するものであることを見抜いていた。確かにイスラエルは、その供儀と祭祀によって主に仕えていると信じているが、実際はカナンの地の豊穣性と結びついたバアル宗教の形式と、その基本的宗教的態度とをパレスチナに移住した際に取り入れていた。それをヤーウェ宗教、とりわけ北王国の聖所と融合させていた(列王上12章)。ホセアは、これを不信と呼び、背信と呼ぶ。そこで期待されるのは、ひたすら物質的な生活財を保証する神でしかない。バアル宗教は、神の生産力を真似た性的な豊穣儀礼によって、感覚的な生命感を卑猥な雰囲気の中で醸し出している。そこでは、地上的なものを超越した神に忠実であろうとする、宗教の内面性と高い生命倫理は無縁のものとなる。その神は地上的な感覚から彩られた、人間のための生産者でしかない。ホセアは、このような宗教を、きわめて適切にも「淫行」と特徴づけることによって、物質的な自然宗教と、神と民との間にある人格的交わりに基づくヤーウェの啓示宗教と峻別する。

10-15節は、6,7節の後に続く。

10-11節は、神を忘れた民の土地の作物の滅びが語られ、13-15節は、祭祀に対する威嚇が語られている。イスラエルがヤーウェの恵みを認めず、主を忘れてしまったことが、神の介入の究極の原因であることが語られている。それは、あざむかれた神の愛がなせる、神の民への介入であることを覚えねばならない。

10節は、本来ヤーウェの賜物であるものを、バアルに帰したイスラエルの罪を糾弾している。「穀物、新しい酒、オリーブ油」などの産物は、主の賜物として、神の力を示すものである。神の生ける力と交わりと愛の配慮の証拠である。しかし、イスラエルは、これらすべてを神の恵みの賜物であることを認めなかった。そればかりか、バアルの像を造っている金や銀を得させたのも、神の賜物であったことを認めなかった。民は神を崇め礼拝し、その神との契約を重んじ、神の民として歩むことに心を留めず、富そのものを目的とするに至った。イスラエルは、神の賜物であるものを神とするようになった。金が神々とされ、その与え手である主への信仰の意識が希薄化した。当然のように、主への感謝も忠誠も義務も喪失してしまった。こうして民は、神の賜物の世界ではなく、感覚の世界に生きる者となり下がってしまった。

11節では、「それゆえ」といって、神の審きが民を脅かす。主は与えた血の産物を取り除くことによって、その与え手が誰であるのかを示される。ヤーウェなのかバアルなのかを示される。民はその賜物をもはや持たなくなった時、はじめてそのことがわかる。神の審きにおいて、はじめて神から贈られていた愛が明らかになる。

しかし、同時に神の審きは、人間の本質を暴き出す。11節の後半においてそれが明らかにされる。神の前に民はもはや自分の恥じを包み隠すことはできない。「羊毛」も「麻」も体を覆うものである。それが奪い取られることは、自分の裸を隠すものがない。神は、人間の内面の不実も、外面の罪も、共に露にされる。神に対する不誠実も忘恩も、すべてを明らかにされる。

神の民は、この神の前に立つ者であることを覚えねばならない。

12節、主はイスラエルの「恥を愛人たちの目の前にさらす。」それは、地の産物のない者は、バアルの祭儀において供え物を携えることができず、裸で無力な者であることがむき出しにされるからである。しかし、その様な者をバアルは救えないので、その恥辱はバアルのものでもあることが明らかにされる。

主は、このようにして民から物質的な望みを絶つ(13節)ことによって、バアル宗教に基づく、土地と結びつく祭りを止めさせる。ホセアが、新月祭や安息日等の祭りをすべてやめさせようとしているのは、これらの祭りが主によって定められたものではなく、人間の作った制度でしかなかったからである。民の考えではいくら主の御心にかなうものと願われていたとしても、人間の考案である限り、それらは認められるべきではない。

14節の「これは愛人たちの贈り物だ」というイスラエルの言葉の中に、バアル宗教の中に生きている、イスラエルの異なった生命感に基づいた邪悪な関係が物語られている。そこには、人間が必要なものを自分の手で手に入れた報酬であり、それに対して当然の権利を持ち、自分の所有物として処理できるという考えがあるが、預言者は、それは主の所有に属し、その民が神に負うている贈り物であると見なしている。

神は、このような感覚的で利己的な文化の世界を、その地を混乱させ荒廃させ、この種の文化と祭祀に大きな打撃を与えられることによって終わらせる、という警告がここになされている。

バアルに香をたき、その装身具を身につけることは、「愛人の後について行く」行為であるといわれている。こうして、主の民に裏切られた愛が明らかにされる。そのことに対する叱責と威嚇の言葉を通して、主はどこまでも民を求めておられる。主は「わたしを忘れた」という悲痛な叫びによって、イスラエルを求めておられる。それは、主のイスラエルへ対する、悲しく優しい深い愛の言葉である。その響きに隠されている神の変わらない愛を、イスラエルは忘れてはならない。

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