エレミヤ書講解

43.エレミヤ書26章1-24節『最初の迫害』

26章からエレミヤの預言者としての活動を伝える伝記的な記事が45章まで続いています。26~29章はエレミヤの苦難について記されています。その冒頭にエレミヤの神殿での説教の記事が置かれています。このことは、エレミヤに対する迫害が単に個人的な体験の記録として伝記的に記されているのではなく、神から立てられて神のことばを取り次ぐ預言者と神のことばに対する拒絶であることを明らかにし、これによってイスラエルに対して課せられた裁きを記録する物語であることを示しています。

エレミヤの神殿での説教は7章に記されたのと同じ出来事でありますが、明らかにその扱いは違っています。7章ではエレミヤの長い説教が伝えられていますが、ここでは説教は短く纏められ、むしろそのあとに起こったことを記すことに重点が置かれています。即ち、エレミヤの逮捕と裁判の緊張した経過が詳しく述べられています。

この事件の日付が最初に記されています。「ヨヤキムの治世の初め」とは、紀元前609年の秋から翌前608年の春のあいだと考えられます。ヨシヤの戦死のあとでその子ヨアハズが王位につきましたが、3ヵ月後にエジプトのファラオ・ネコに幽閉されて、ヨシヤ王の第二子のエルヤキムが代わって王位に着けられました。このエルヤキムがヨヤキムと改名させられて、エジプトの支配下におかれることになります。この王は課せられた貢をエジプトに支払うために重税を取り立て、私腹を肥やすためにその一部をとるなどの悪政を行いました。彼は後にバビロンの支配に服しますが、しかし後に反逆を企てて制裁を受け、エルサレムは攻略されて、第1回の捕囚を引き起こすことになりました。彼はその間エレミヤが語り、書記のバルクに命じ記させた神のことばを、暖炉の火に燃やして軽んじ、エレミヤとバルクを弾圧しようとしたため、主から災が下されるという宣告を受けています(36章)。

ヨヤキム王の治世の約10年間は、ユダにとって暗黒の時代であったということが出来ます。

エレミヤは背信の道を歩む王とその王の下で同じく背信の罪を犯す民に向かって神のことばを取り次ぐ使命を帯びて神から預言者として立てられていました。そのエレミヤに主から命じられたことは、主の神殿の庭に立って、「わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ」しかも「ひと言も減らさず」(26章2節)というものでした。そこで主が期待したのは、民が「悪の道から立ち帰る」ことでした。この場合、神に聞き従うとは、律法を守ることであり、神が遣わした預言者に耳を傾け聞き従うことでした。しかし、もし、これに聞き従わないなら、かつてシロの聖所が呪われて破壊されたようにエルサレム神殿を呪い破壊するというものでした。シロは、ペリシテ人に打ち負かされて神の箱を奪われた昔の聖所です。たとえ神に選ばれた聖なる場所であっても、神の裁きによって破壊されることもありえるという例としてシロが引き合いに出されています。

しかし、この預言は、人々の耳には、神聖なエルサレムを冒涜するものと聞こえました。それ故、エレミヤは告発され、裁判に掛けられました。中心になってエレミヤを告発したのは祭司と預言者たちです。彼らは「すべての民」を煽動し、「この人の罪は死に当たります・・・この都に敵対する預言をしました」(26章11節)といってエレミヤを告発しました。

この告発に対するエレミヤの弁明が12~15節に記されています。

ここでエレミヤは三つのことを主張しています。
① 自分を遣わしたのは主であるから、自分は真実の預言者である。
② 主の声に聞き従え、そうすれば災いから免れることが出来る。
③ もし、真実な主の預言者であるわたしを殺すならば、罪なき者の血を流す重大な罪を犯すことになる。

エレミヤのこれらの主張には、「派遣者なる主」の主権に対する絶対的な確信と服従の姿勢が滲み出ています。それは同時に、自己の預言者職に対する召命の譲ることのできない確信に通じています。この召命の自覚こそが、エレミヤをどのような状況にも屈しない、屈することのできない預言者として立たしめる力となりました。

このエレミヤの弁明によって、裁判官を務めた高官たちとその場に集う「民のすべての者」は、「この人には死に当たる罪はない。彼は我々の神、主の名によって語ったのだ」(16節)といって、無罪の判決を下したといわれています。

この判決を言い渡すに当たって、数人の長老たちは、約100年前に活躍した預言者ミカがヒゼキヤ王の時代に預言したことばを引用し、それに対するヒゼキヤ王と人々の反応の例を引用しました。ここに引用されている預言者ミカのことばとされていることばは、聖書の中にはどこにも見出すことが出来ません。ヒゼキヤとミカとの間にこのような遣り取りがあったとはどこにも記されていません。おそらく、これは言い伝えられてきたことばの引用であると考えられます。しかし、ヒゼキヤ王の敬虔と、エルサレムの住民が王と一体となってヤハウェに従ったことは余りにも有名であります。この出来事も、ヒゼキヤに関する言い伝えとして人々の間で記憶されていたのではないかと思われます。

20-23節に、エレミヤが神殿で逮捕されたにも係わらず、死刑を免れたことと関連して、エレミヤと同じ内容の預言をなした一人の預言者ウリヤの死の記事が記されています。彼についてはここだけに記されているだけですので、詳しいことは一切わかりません。この文脈の中でこの記事の持つ大切な点は、神殿説教がエレミヤをいかに大きな危険に晒したかを示すことにあります。ヨヤキム王はウリヤを残忍な仕打ちで殺害しただけでなく、埋葬することも許さないで、呪われた死を与えました。この記事は、エレミヤもウリヤも同様の運命に陥る極めて危険な状況におかれていたことを伝えています。しかし、エレミヤは亡命の道を選ばず、人々の前で恐れることなく主のことばを堂々と語り、生きることを許されました。彼の真実のことばを聞き、悔い改める者によって保護され、主の預言者としての使命を全うしていくエレミヤの姿を記してこの章は閉じられています。

この章は、エルサレム神殿の破壊という預言に焦点を当てながら、その預言がエレミヤに死の危険をもたらしたことを伝えます。そして、エレミヤはこの時以降、生と死が隣合わせの危険の中をくぐり抜けていくことになります。しかし、いかなる時もエレミヤはさまざまな助けによって守られ続け、主から遣わされたまことの預言者としての使命を全うしていく、その姿が伝えられています(24節)。それは、主に遣われた真実の預言者に聞くイスラエルの運命そのものであり、この記事を25章34節以下の記事と読み合わせていくなら、エレミヤと同じ預言をしたウリヤの預言を拒み彼を殺害したヨヤキム王とイスラエルの運命は、ウリヤを殺害した同じ仕打ちを受けることを示されています(25章34-38節)。

神のことばの主権性とその力は、人の思いの中で受け入れられたり拒まれたりし、これを語る預言者は実に弱い立場に立たされます。しかし、神のことばの主権性とその力は、人の思いを超えたところで貫かれ実現していきます(25章33節)。表面の弱さに眩惑されず、語り続ける預言者を持つ民は幸いです。また、過去の歴史を振り返りつつ、神のことばの真実を見つめ、これに聞こうとする民も幸いです。そのような民を持つ預言者もまた幸いです。神のことばはこうした細いしかし決して切れることない糸を、神自身によって保たれていくものであることを改めて幸いに思います。

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