エレミヤ書講解

57.エレミヤ書39章1-40章6節『エルサレムの陥落』

ここにはエルサレム陥落の時のことが記されています。エルサレムの陥落については、列王記下25章1-21節、歴代誌下36章11-21節、エレミヤ書52章1-27節などにも記されています。エレミヤ書39章は「エレミヤの受難記」の一部として記されていますが、後の編集者による書き加えや編集の後が見られる、と現代の聖書研究者は見ています。52章の記事は、列王記下25章1-21節とほぼ同じであるので、列王記からエレミヤ書に書き加えられたものと考えられます。

永遠に滅びないと信じられていたユダ王国の滅亡とエルサレム陥落は、ユダ国民にとっても、政治的・宗教的指導者にとっても未曾有の挫折体験となりましたが、その出来事のエレミヤとその弟子のバルクの見方と、後のエレミヤ書の編集者や神学者(申命記史家、歴代誌史家)の見方とでは相違があり、この部分は、その相違による記事の扱いに注意を要する箇所です。

1-2節は、エルサレム占領に先立つ出来事について短く記しています。バビロン軍によるエルサレム占領は、1年半の包囲の後、紀元前587年8月に、食糧難のために既に弱っていた町の城壁に孔を開け、そこから包囲軍が侵入することによって開始されました。占領軍(バビロン)の将軍たちは、城内の「門に設けられた座」に座り、そこで被征服者に対する処分を行いました(3節)。

「ユダの王ゼデキヤと戦士たちは皆、これを見て逃げた」(4節)と記されていますが、実際の逃亡は、都の一角が破られた時に、その包囲網を潜り抜けようとしてなされたと思われます。「アラバに向かって行った」のは、エジプトに逃亡するためでありましたが、ゼデキヤ王はエリコの荒れ地でバビロン軍に捕らえられ、シリアの北部にある都市でオロンテス河畔にあるリブラ(エルサレムからは300キロ北にあり、バビロンのパレスチナ占領の拠点とされた所)に連行され、そこでゼデキヤは裁きを受けることになりました。ゼデキヤは、自分の王子たちが殺されるのを眼前で見せつけられた上で、両眼をつぶされ、青銅の足かせをはめられてバビロンに移送され、牢獄に入れられてそこで死にます(52:11)。

8-9節に、エルサレムとその住民に対するバビロン軍の処置が記されています。52章12節によると、それは1か月後の5月10日のことで(太陽暦では8月か9月に相当)、バビロン王の親衛隊長であるネブザルアダンが指揮して、神殿、王宮をはじめとする建物、民家のすべてが焼き払われ、城壁が破壊されました。こうしてエルサレムは廃墟と化しました。列王記下25章13-17節によれば、神殿の青銅の柱、台車、主の神殿にあった青銅の「海」をはじめ、さまざまな神殿の用具をバビロンへ運び去った、といわれています。列王記の記者は、エルサレムの神殿と祭具類に多大の関心を示して、この出来事を報告しています(歴代誌の著者も同じ)。しかし、この箇所においては、神殿が破壊されて祭具類が持ち去られたことに全く関心を示されていません。この記述の違いは非常に興味深いことです。これらの祭具類は、バビロン捕囚が終わった時、ペルシャ王キュロスが、エルサレム神殿の再建を命ずるとともに(エズラ記1:2-4)、再びエルサレムに持ち帰るように指示したといわれています(エズラ記1:7-11)。エルサレム神殿はユダ王国唯一の神殿で、約400年前、ソロモン王によって建てられ、祭具用の什器は、ユダ民族の政治的・宗教的な誇りを表現し、保証するものと考えられていました。

しかし、この受難記(エレミヤの弟子であるバルクが記したと考えられる)には、神殿やその祭具用具にはほとんど関心が払われていないことは注目に値します。木田献一(「エレミヤ書を読む」筑摩書房)は、「エレミヤの目指していた再建は各人の心に中心を持っていたのです。エレミヤは七十年後における、ユダの土地の回復については、重大な関心を抱いていましたが、神殿の再建にはほとんど関心を抱いていなかったと思われます。これがエレミヤの信仰の一つの特色です。神の栄光が顕現される聖なる場所は、神殿ではなく各人の身体、即ち人間一人一人の存在であり、最も聖なる場所は、神殿の内陣にある至聖所ではなく、人間の中心としての心であるという方向への転換は、エレミヤが既にはっきりと示していると言うことができます。」と述べています。

エルサレムの町が灰燼に帰したあと、「民のうち都に残っていたほかの者、投降した者、その他の生き残った民は、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。その日、無産の貧しい民の一部は、親衛隊の長ネブザルアダンによってユダの土地に残され、ぶどう畑と耕地を与えられた」(9,10節)といわれています。国の主だった政治的指導者や有産階級や技術者たちの中で、殺されず、投降した者と、生き残った者は、捕囚としてバビロンに連れ去られました。国に残ったのは、「無産の貧しい民の一部」だけで、ネブザルアダンは、彼らにユダの残された土地とぶどう畑と耕地を与えましたが、この貧しく無力な民には、国を再建する力もありません。この国を再建するには指導者が必要でしたが、その指導者となるべき人物がいません。

しかし、そこにも一つの残された希望が語られています。エレミヤは、エルサレムの城壁の一角が破られて、バビロンの手に落ちた直後、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンの手によって、監視の庭から解放されました。これは、バビロンの王ネブカドネツァルの命によることで、エレミヤは丁重に遇されたことが報告されています(11-14節)。

エレミヤがなぜそのような扱いを受けることになったのか、以下の事情が考えられます。エレミヤと同世代のヨシヤ王は、親バビロンの立場を明確にし、バビロンに打ち倒されようとしていたアッシリアを助けるために北上してきたエジプトの王ネコとメギドで戦って戦死しました。エレミヤは、ヨシヤ王の行う宗教改革を支持し、バビロンをユダとエルサレムの罪を裁く主の僕として語っていましたので、バビロン側からは親バビロン派であるとみなされていました。ヨシヤ王の死後、エジプトの王によってヨヤキムがユダの王位に就けられると親エジプト派が宮廷内に力を増し親バビロン派との間で宮廷の勢力は二分しました。ヨヤキムの死後、ゼデキヤ王はバビロン王ネブカドネツァルによって王位に就きましたが、その権力の基盤は最後までしっかりせず、親エジプト派によっていつも揺さぶられていました。その間、エレミヤは助言を求めるゼデキヤに、バビロンを主の僕としてその占領と捕囚による支配を受け入れ、バビロンに投降することが生き残る唯一の道であることを、一貫して繰り返し語っていました。

このエレミヤの変らない預言者としての姿勢と働きは、バビロン王ネブカドネツァルの耳にも入っていたようです。それゆえ、ネブカドネツァルはエルサレム陥落後、エレミヤを優遇するようネブザルアダンに特別な指示を与えていました。バビロンの占領策は、アッシリアのように占領後、支配階級を捕囚とした後に新しい支配層のグループを他から導入するということをせず、無産の貧しい人々だけが残しました。そして、バビロン王が総督としてユダの監督を委ねたのは、ヨシヤ王の時代に書記官であったシャファンの孫で、アヒカムの子であるゲダルヤであったといわれています(39:14、40:5,7)。シャファンはヨシヤ王の宗教改革の発端に立会った人物です(列王下22:8以下)。その子アヒカムは、エレミヤがヨヤキムの治世の初めに、神殿で説教した時、祭司や預言者に捕らえられて命の危険にさらされたエレミヤを助けた人物です(エレミヤ26:24)。ゲダルヤはバビロン王にとって最も信頼できるユダに残る親バビロン派の政治的な指導者でした。そして、バビロンに投降を勧めたエレミヤは最も信頼できる宗教的指導者でありました。そのエレミヤをゲダルヤに預けることに関しては、バビロンが、ユダの残された貧しい人々を指導し安全に支配していく上でも、最も賢明なことであるという判断が働いていてと思われます。

14節末尾に記されている「こうして、エレミヤは民の間にとどまった」という記述は、エレミヤの生涯を貫く「民とともに苦難をともにして歩む」姿勢を表わしています。しかし、39章の記述は、40章1-6節の記述との間で矛盾が見られます。監視の庭から解放されたはずのエレミヤが捕虜とされ、鎖につながれて連行されたと40章1節に記されているからです。親衛隊長ネブザルアダンは、エレミヤを「連れ出し、よく世話をするように。いかなる害も加えてはならない。彼が求めることは、何でもかなえてやるように」(39章12節)というネブカドネツァル王の指示に従って、エレミヤを遇していましたが、何かの手違いでエレミヤが再び捕らえられて捕囚とされていたのを、ラマで気づいて、エレミヤを自由の身とした上で、バビロンに行くのもよし、ゲダルヤのところに行くのもよしとして、エレミヤに選択を委ねたのでしょう。エレミヤは、第1回捕囚のときから、バビロンにユダの国の将来における希望を託していましたが、自らのあり方については、ベニヤミンのミツパで職務を執行していたゲダルヤのもとにとどまることを選びました(40章1-6節)。

39章の記事と40章の記事の間には多少の矛盾がありますが、この二つの記事に共通しているのは、エレミヤは常に国に残った民と共に留まることを選ぼうとしていることです。それがいかに困難であっても、エレミヤはそこに預言者としての自分の使命があると考えていたからです。エレミヤがユダに残ることは、バビロンから見ても、貧しい無産の民の将来を考えても、バビロンから信頼されているゲダルヤやエレミヤが指導者としているということは、歓迎すべきことであり、安心できることでありました。そして何より、この敗戦焦土のユダの国に真実の神の言葉を語る預言者エレミヤが残ったことに、なお大きな希望が残されていることをこれらの物語は示しています。39章は最後にエレミヤを助けたエベド・メレクへの約束を記し、エレミヤに絶えず助言を求めながらその言葉に最後まで真剣に聞き、従うことができなかったゼデキヤ王の悲惨な姿とを対照させています。このような構成をしたのは、後の申命記主義的な編集者によるものと思われます。そうすることによって、神の言葉に聞く者に与えられる祝福の道と、これに聞かなかった者に与えられる呪いの道とを対照させています。そして、エルサレムの陥落と捕囚後の残された希望は、御言葉を語ることのできるエレミヤが残り、共にいるという事実において示されています。すべてを失い希望が何もないと思えるその敗戦焦土の中にも、御言葉を語る者が残り、その言葉を真剣に聞き悔い改める者には、なお希望が残されていることを、編集者は告げようとしています。それは、現代を生きる私たちにも重要な問いかけをしています。御言葉に耳を傾けないものとなる時、わたしたちの命は失われた状態にあります。しかし、どのような悲惨な状況になっても、御言葉がある限り、そこには希望があります。この御言葉に聞き悔い改める者とするために、神はどのような時代にも預言者を残されます。それがエルサレム陥落の中で残った唯一の希望です。

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