イザヤ書講解

26.イザヤ書36章1節-37章38節 『信頼と救出』

36-39章は、イザヤ預言集の歴史的付録だと言われています。その内容は一部を除いて、列王記下18章9~20章9節とほとんど同じであり、イザヤ書固有のものでないと言われます。いわゆる「イザヤ物語」といわれるこの部分は、イザヤの預言集を完結させようとした後世の編集者が、預言者イザヤのことが語られている列王記下の記事をここに追加したのだろうと言われています。この物語が追加されたときには、40章以下のいわゆる「第二イザヤ」と呼ばれる文書も編集されていただろうと言われます。それ故、この部分は、35章までの内容と、40章以下の内容を橋渡しする目的で編集されたといわれています。「イザヤ物語」の伝承としては、不統一で歴史的に不明な点が多く、非常にわかりにくいものになっているのは、編集上の意図によるものと思われます。

36-37章には、アッシリアの王センナケリブのユダ侵略を巡るイザヤとヒゼキヤの対応が述べられています。36章には、センナケリブのエルサレム開城と降伏の勧告が記されています。それは、「ヒゼキヤ王の第14年」とされていますから、前701年のセンナケリブによるユダ侵入とエルサレム包囲の年ということになります。ここで注目すべきことは、列王記下18章14~16節に記されている以下の部分が省かれて引用されていることです。

ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。 またこのときユダの王であるヒゼキヤは、自分が金で覆った主の神殿の扉と柱を切り取り、アッシリアの王に贈った。

列王記下18章には、センナケリブにヒゼキヤが降伏し、エルサレムの町を救うために、金や銀など莫大な貢を支払ったことが記されていますが、ここにはそれがありません。

サルゴン王の死後、ヒゼキヤはイザヤの反対を押し切ってエジプトの援助を頼み、周囲の国々とともにアッシリアに反旗を翻しました。怒ったセンナケリブは前705-701年にかけて、反アッシリアの国々を破竹の勢いで陥れ、ついにユダに侵入して多くの町を奪い、エルサレムの町を包囲しました。史実としては、この時ヒゼキヤがとった行動は、列王記下18章14~16節に記されているとおりであったと考えられます。事実、この時、ヒゼキヤがセンナケリブに贈った莫大な貢物のことはセンナケリブの年代記にも記されています。これは聖書の記述と世界史の記述が一致して確認できる数少ない例として、注目されている箇所でもあります。

37章9節の「クシュの王ティルハカ」の記述にも矛盾があります。前701年には彼はまだ9歳に過ぎず、一軍を率いて他国に侵入する王の年齢に達していません。

こうした矛盾は、列王記下を引用したイザヤ書編集者の意図的変更だとする説と、異なる二つの伝承が存在していたとする説とによって克服できますが、決定的なことは言えません。

しかし、編集者は明確な意図によって、この物語を構成し直しています。重要なのは、彼とその時代の民がイザヤの使信をどのように聞くべきかを真剣に問うている、その問いにあります。36章には、「頼む」と「救う」を意味する言葉がそれぞれ7回用いられています。

4-10節のラブ・シャケの説得のキーワードは、「頼る」です。アッシリアの王センナケリブの使者ラブ・シャケは、ユダの高官たちに「お前は何により頼んでいるのか」、エジプトも、ヤハウェも、ユダの戦力も、いくらより頼んだところであてにならないではないかと、畳み掛けるように語っています。

特に、ヒゼキヤは、「我々は我々の神、主に依り頼む」と言いい、「ユダとエルサレムに向かい、『この祭壇の前で礼拝せよ』と言って」いるが、「その主の聖なる高台と祭壇を取り除いたのでは」主が助け出してくれるはずがないではないか、という趣旨の批判をしています。これはいかにも異教の偶像宗教により頼む人間らしい批判です。国中で主を礼拝する場所を取り除いて、お前たちはどうやって礼拝するのか、どうやって神は民を助けられるというのか、という主張がここに見られます。それ故、彼は「わたしは今、主とかかわりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」(10節)とさえ言って、それが主の御心として起こることを告げています。

そして、主に信頼せよというヒゼキヤの言葉がいかにあてにならないかを説得するために、ラブ・シャケは、アッシリアによって倒された国々の名を上げ、他の神々がいかにあてにならなかったかを、歴史の事実を上げて次のように論証しようとしています。

「ヒゼキヤが、『主は我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか。ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムの神々はどこに行ったのか。サマリアをわたしの手から救い出した神があっただろうか。 これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。」(18-20節)

ハマテは前720年にサルゴンが、アルパデは前740年にティグラテ・ピレセルが、セファルワイムは、前727年にシャルマネセルが、サマリアは、前721年にサルゴン二世がそれぞれ征服しています。その国々を救えなかった神々は一体どこにいるのかといい、アッシリアに征服された神々の無力を告げ、「それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか。」、と言って、ヒゼキヤの神、主もアッシリアの手からあなたがたを救い出せない、とラブ・シャケはアッシリアの無敗の絶対的な権力を強調し、挑戦しています。

ユダの高官はラブ・シャケの声が城壁の上にいる民に聞こえないように、アラム語で話してほしいと頼みましたが、それはかえって、ラブ・シャケに民が城壁のうえにいることに気づかせることになり、ラブ・シャケはいっそう大きな声でこれらの事を語りました。

しかし、人々は王の命令を守って、一言も答えなかったといわれます(21節)。一見何も答えられなかったように見える民の沈黙は、王の命令によって成されたものです。

ラブ・シャケの言葉はヒゼキヤに伝えられ(22節)、ヒゼキヤはこの言葉を聞いて、自ら衣を裂き、荒布を身に纏って、主の宮に入り、ユダの高官と祭司たちに荒布を纏わせ、イザヤのところに人を遣わし、イザヤに祈りを捧げてほしいと願い出ました(37章1-4節)。

これを聞いたイザヤは、「アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」(37章6-7節)という主の約束を告げています。

イザヤは一貫して、中立策と主にのみ信頼せよと告げていましたが、ここではいっそうその使信は徹底して明らかにされています。そしてここには、エジプトにより頼もうとしたヒゼキヤの姿はありません。また、センナケリブに貢物を贈って、自らの命を救おうとしたヒゼキヤの姿もありません。あるのは力強いイザヤの主よりの使信と、ヒゼキヤの祈りの言葉です。

ヒゼキヤはケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主を呼び求めます。エジプトよりイスラエルを救い出したすべての国民の王にいまし、天地の創造者なる神だけが、神であると告白します。その神に、祈り、耳を傾けて聞き、目を開いてご覧下さいと、より頼んでいます。(37章16-17節)

他の神々が滅んだのは、人の手で造られた木や石にしか過ぎないからです。ヒゼキヤは、イスラエルをエジプトの奴隷の地より導き出したあの御手で救い出してください。そうすれば、地のすべての王国が、あなただけが主であることを知るでしょう、と祈っています。(37章19-20節)

こう祈るヒゼキヤのところに、イザヤの遣いの者がヒゼキヤの祈りは聞かれたという主の託宣をもたらします。

「エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。」(37章32節)「わたしはこの都を守り抜いて救う/わたし自らのために、わが僕ダビデのために。」(37章35節)という言葉の中に、この救いの性質が明らかにされています。救いは主の熱情によります。ヒゼキヤは、主の熱情を信じる信仰を回復して祈り、その救いに預かっていきます。それは、主ご自身のためであり、ダビデとの契約に対する主の誠実な愛による救いであります。この契約を愛し熱情をもたれる主を信頼している者は救い出され、失望させられることがない。これがこの36-37章の二つの章の使信であります。

アッシリアはエルサレムから突然の撤退をしました。これは歴史の七不思議です。ヘロドトスによれば、36節の主によるアッシリアへの大打撃は、ペストによるものとされています。いずれにせよ主に敵対し主を冒涜したセンナケリブは、立ち去り、アララトの地でその子によって殺されるという悲惨な最期を迎えました。

この使信は主に信頼する者の救い出しが主題です。主の遣わされる預言者の言葉に聞く者になされる、「主の熱情がこれを成就する」(37章32節)救いは、「ひとりのみどりご」が「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」として成し遂げるものであり、「ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(9章5-6節)救いとして語られています。

この突然の救いが指し示すのは、主を信じ主に信頼し主の熱情によってなされる御子の誕生の出来事です(37章32節、その成就はルカ福音書2章11節に告知されています)。

旧約聖書講解