イザヤ書講解

42.イザヤ書44章1-5節『成長させる神』

この御言葉も実に慰めに満ちた主の救いが語られています。ここで呼びかけられているのは、主から、わたしの僕、わたしの選んだ者といわれているイスラエルです。現在捕囚とされ、捕囚の地で毎日、霊的に激しい飢えと渇きを覚えているイスラエルにこの呼びかけがなされています。こう呼びかけられてイスラエルは、その飢えと渇きの原因を多く自分たちの祖先から負わされたものであると考えていましたが、彼ら自身の罪にもその原因があることを43章22-28節において明らかにされていました。しかし、この告知は、43章25節において語られた、

わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。

というすでに明らかにされた罪の赦しを前提にして、将来顕される神のすばらしい救いの恵みについて語られています。今やイスラエルは、新しい時代に向けた新しい言葉を聞くために呼び出されています。わたしの僕、わたしの選んだという言葉は、イスラエルがイスラエルである根拠は、神の所有とされていることと神に選ばれた事実にあることを示していますが、2節において、それ以上の事実が示されています。「母の胎内に形づくり」という語は、イスラエルの創造は、イスラエルをひとつの民とした歴史的出来事に関連づけるのではなく、神の本来の創造にまで遡る、個別的な命の創造にかかわるのと同じ仕方でなされた創造の業に目を向けるように促しています。つまり第二イザヤは、イスラエルの特性を出エジプトではなく、もっと本源的なものに根拠付けようとしています。それは、「わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(44章6節)といわれる方の、すべてを始まらせ、すべてを終わらせる歴史の主として、またすべて存在するもののはじめを与え、その存在を終わらせることのできる方の業であることを明らかにします。この神なくばすべての存在はなく、すべての歴史は始まらない。神こそすべての根源であることを、第二イザヤは、「あなたを造り、母の胎内に形づくり」という言葉で明らかにしようとしています。

そして、イスラエルは、この呼びかけを「恐れるな」という言葉によって、信仰を持って聞くように受けています。「わたしの僕」「わたしの選んだ」という語が、1節に続き2節においても繰り返されています。しかし、それは「ヤコブよ」「エシュルンよ」と個人の名において呼びかけられています。エシュルンとはイスラエルの名をあらわす別の表現ですが、その語の形成はゼブルンの場合と同じ仕方であったといわれています。この名は、ここと申命記32章15節、33章5,26節のみに出てきます。それはヤーシャール(「誠実な者」、「真実な者」を意味する)という語から出た派生語です。ヤコブ(欺く者)がエシュルン(真実な者)として逆転した取り扱いは、どこまでも彼ら自身のそれに由来するのではなく、主ご自身の真実と誠実によります。

イスラエルの希望ある未来は神の介入によってのみ可能となります。その介入(3節)は、二つの結果(4-5節)を引き起こします。神の介入によって、乾いている地に水が注がれ、乾いた土地に流れが与えられ、イスラエルの子孫に主の霊が注がれ、彼らの子孫に主の祝福が与えられると語られています。3節が告げるこの神の介入は、ここでは新しい出エジプトの出来事として語られていません。荒野を通って祖国に至る帰還の道のことが語られているのではありません。もっと長い、常に繰り返される成長の奇跡のことが述べられています。霊(ルーアハ)は、創世記2章7節、イザヤ書32章15節、詩編104篇30節と同じく、「自然的生命を作り出す神の力」を表すものとして用いられています。ここでは乾いている地とは、現状のイスラエルのことを指して言われています。

今は乾ききっているイスラエルのために新しい成長が起こるとのこの予告は、これまでの救いの約束とは異なるものです。この予告は、近い将来において起こることとしてではなく、来るべき世代においてようやく表れる成長として告げられています。こうした予告は第二イザヤの告知にとって特に注目すべきものです。彼の告知は、救いのときを一気に来たらせる、神の新しい救済の予告に限定されません。大転換の後にも、主の歴史における働きは継続し、したがって、イスラエルの歴史は継続することを示しています。

しかし転換後の神の働きは、その性質が変わります。神の救う働きには祝福する働きが加わります。一回的な働きに恒常的な働きが加わるのであります。イスラエルの信仰においてこれらの働きは、互いに補完し合うものとして理解されています。救う神は同時に祝福する神です。神のイスラエルに対する新しい行動は、イスラエルの運命を変える救いの行為に留まるものでありません。この神の行為によって可能となったイスラエルの未来の中で、神は祝福し、それを増大させながら、イスラエルを成長させ、さらに働き続けるのです。

この神のもう一つの働きは、54章と55章で展開されています。

約束されたイスラエルの成長には、二つの結果を引き起こすことをすでに指摘しましたが、それは4-5節に明らかにされています。4節は、本来のイスラエル自身に対して語られている成長の約束です。小川のほとりの木々の生長は、日本では当たり前の光景として、どこにでも見られますが、空気の乾燥したバビロンにおいても、祖国イスラエルにおいても、川はどこにでも流れているわけではありません。それ自体がまれであり、小川のほとりにある木々の青々とした豊かな成長は常に憧れであり、祝福された人生、信仰の歩みを語る言葉として詩編(1篇)にも語られています。この言葉において、自然の繁殖と捕囚の世代の子孫の繁栄が約束されています。その繁栄と豊かな命の実りをもたらす神の働きとは、勿論、御言葉の働きとして与えられます。55章3節においては、「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」と語られているからです。

しかしその恵みは、捕囚の民の子孫に限られたものとしてのみ与えられるものではありません。5節には、この祝福の働きがイスラエルでない人たち、つまり異邦人改宗者たちにも与えられ、彼らの参入によって主の共同体がさらに成長し拡大されることを示す約束が語られています。ここには、帰還後、生まれも信仰も異なっていたのに、イスラエルとその神のほうを向く人々が現れ、彼らによってイスラエルが成長することが約束として語られています。そのようにして現実の世の歴史が継続することが語られています。

第二イザヤは、帰還後イスラエルを囲む諸国民が、一気にヤハウエへの信仰ををもつようになるということを単純に期待していたのではありません。むしろ彼は、イスラエルの神の方を向き、イスラエルの礼拝にも向くようになる者は、ごく小数のものに限られると見ていました。

しかしここで重要なのは、第二イザヤが、捕囚の世代の中で実際に始まったことを予告しているということでありますが、それ以上に、主なるヤハウエの名によって信仰告白をして信仰の共同体に新しい神の民が加えられ成長していくという理解が示されていることです。

ある者は「わたしは主のもの」と言い
ある者はヤコブの名を名乗り
またある者は手に「主のもの」と記し
「イスラエル」をその名とする。

という事態はまさにそのような事態を指して述べられた言葉です。この神の共同体の新しい理解にとって特に重要なのは、預言者がこれらの言葉で所属表明をし、イスラエルの外から新たに参入するものが加えられているという事実です。おそらく律法をより強く重んじる者らは、「『主のもの』としるし」というところを、割礼という言葉を用いて語ったであろうと思われますが、第二イザヤfがそうしないのは、彼が主の民の所属を表す目印としての割礼に決定的意味を与えなかったからだと結論付けて間違いないだろう、という注解者の意見もあります。その意見にまったく同意します。この第二イザヤの信仰の共同体の形成の理解は、まさに新約聖書の理解、プロテスタントの信仰の理解へ繋がっていく重要な方向を示しています。

5節の言葉にはもう一つ見逃せない大切な特徴があります。それは、主の民への所属が、ヤコブ=イスラエルへの所属が平行して置かれている点です。それは、イスラエルの神に向くことは、同時にイスラエルに向くことだ、ということとして語られている点です。イスラエルの神を自らの主と告白できるのは、この神に仕えるものたちの群れに加わるときだけである、という信仰が表明されていることです。これは信仰の問題は、決して一人個別的なことでなく、救われるべき神の名として一つの名を告白し、同じ信仰の告白を持って、一つの民とされて、同じ神を礼拝する共同体として歩む、そういう主の民としてのあり方として捉える教会論的な考えが、ここに示されています。

旧約聖書講解