エレミヤ書講解

41.エレミヤ書24章1-10節『二つの幻』

エレミヤ書24章のエレミヤに示された二つの籠に入れられた「二つの幻」の歴史的背景は明白です。前597年にヨヤキンと他のユダの指導者たちが追放された第1回バビロン捕囚の後に(列王記下24章10-17節)、新しい楽観主義がユダに起こってきました。ネブカドネツァルは、ヨシヤ王の息子でヨヤキンの叔父に当るマタンヤをユダの王に即位させ、彼の名をゼデキヤと改名させました。ゼデキヤはしばらくの間は臣下として、ネブカドネツァルに忠誠を保っていました。しかし、まもなく性急に事態をユダ側に好転させようと企てる人々のサークルが王に影響力を与えるようになりました。こうしてゼデキヤはバビロンに反逆する謀議に巻き込まれます(27章)。また、前597年に捕囚にされた人々が近いうちに帰ってくると説く偽預言者ハナンヤの言葉に扇動されて、多くの人がそれを信じていました。エレミヤはこのような希望を偽りであると容赦なく厳しく宣言しました。神が将来その民のために新しい発端を生じさせるはずであるという点は保証されていました。しかし、エレミヤにとってその新しい発端は、捕囚になっていた人びとによって成就されるはずでありました。ユダそのものは、今までにふりかかったよりももっと過酷で広範囲にわたる審きになお直面することになっていました。

エレミヤがなぜそのような恐ろしいメッセージでその楽観主義に反対したのでしょうか。それは、第一に、神の民の将来のために定められた神の計画について彼自身がより深く理解していたからです。第二に、彼らの選びと召しが前述のような形で現われると理解していたからです。エレミヤはイスラエルの内的現実を、ホセア、アモス、イザヤのような先輩預言者たちと同じように認識していました。すなわち、イスラエルはあまりにも深く罪と背信に沈んでしまっていたので、神の選びを失っている。しかし同時に、そのイスラエルの反逆にもかかわらず、イスラエルを選んだ際の神の目的は確固としたままである。イスラエルは今や孤立無援であって、避けることのできない審きに直面している。しかし神はその審きによって、イスラエルの民に新しい発端を創造するはずで、審きには新生と再生とが続くはずである。エレミヤはそのようにイスラエルの内的現実を見ていました。エレミヤと同時代人であるエゼキエルは、新しい発端が死んだ涸れ骨の復活として見ました(エゼキエル書37章1-14節)。捕囚期の無名の預言者(第二イザヤ、イザヤ書40-55章の著者)は、バビロンにいる捕囚民に、神が新しい脱出で彼らを導き出そうとしていると告知しました。それは、その輝かしさの点で、最初の出エジプトをはるかにしのぐはずでありました。しかし、エゼキエルにおいても第二イザヤにおいても、新しい発端は、ただ審きによってのみ可能とされる事柄でありました。なぜなら、そのような仕方でしか民の反逆に満ちた過去は消されず、また神の民としてのイスラエルのための新しい、まったく異なった将来はもたらせ得なかったからです。エレミヤは、紀元前597年の後に民が抱いた希望の白々しさを見分けていました。その罪深い過去との完全な絶縁が神の民としてのイスラエルの将来を可能にする唯一の道であるという点をイスラエルが如何に見そこなっているかを見抜いていました。ここからエレミヤは、民がバビロンに隷従することが不可避であり、それが神の意志であるというエレミヤのメッセージと、またバビロンにさらに反逆することは神ご自身に反逆することであるとエレミヤは宣言しました(27章)。

24章はこのような歴史的背景の下で書かれています。前597年にバビロンへ連行された捕囚の民と、その時ゼデキヤ王の下でエルサレムに残る残留民とに、民は分裂する運命を経験します。エレミヤの見た二つの籠に入れられたいちじくは、捕囚民とユダに残った民を表わしています。この場合、「良いいちじく」とは、捕囚とされた民の方であって、「悪いイチジク」とは、ユダに残った民とエジプトに住み着いた者のことで、この者たちが滅びることをエレミヤは告げています。

しかし、ここには、エレミヤの本来の「二つの幻」に関する預言を敷衍した申命記的歴史家による言葉が多く書き加えられている可能性があります。この二つの幻のほかにも、エレミヤが捕囚の民に送った手紙において、バビロンで落ち着いた生活をし、そこで子孫を増やし、その町の平安を祈るようにとの言葉が記され、帰還を約束する言葉が記されています。

それゆえ申命記的歴史家は、イスラエルの真の残りの者とは、バビロンにいる捕囚民であって、神は彼らを通してのみ契約の更新と回復を成し遂げると理解し、自らを励まして生きたのでしょう。

この二つのいちじくの籠の幻は、エレミヤ書の構成においては、「指導者たちに対する言葉」の結びとなっています。しかもこの幻は特にゼデキヤ王に向けて語られたものとされています。指導者たちに向けて最初に語られた21章1-10節の言葉も、ゼデキヤ王に向けられています。要するに、ゼデキヤ王に対して語られた最初の言葉とこの幻の記事が、「指導者たちに対する言葉」の枠となっています。こうした枠づけを通して申命記的歴史家は、南王国ユダの最後の人々は、滅びてしまった。大切なことは、この滅亡の運命と王、祭司、預言者たちの不従順が深く関わっている。即ち、彼らの不従順は、ユダの最後の王ゼデキヤによって、頂点に達し、ついに南王国ユダは滅んでしまった、ということを示そうとしたと考えられます(ヴェスターマン)。

この視座から見る申命記的歴史家の考えは、6,7節に特に明瞭に表わされています。

6、7節の「彼ら(捕囚の民)に目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」ということばは、捕囚の民にとって大きな希望を与えられる約束として受けとめられています。この約束は、明らかに、31章33節と32章38-39節の約束と密接に結びついています。また、申命記30章6節の「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。」という言葉と似ています。神は捕囚民の心に「割礼を施す」とこれらの言葉は告げています。神の義に従おうとしなかったイスラエルの心に、その義に生きる割礼を施すことによって民の心を創り変える新しい霊による一新が語られています。エゼキエル書36章26節では、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」と語られています。

霊によるこころの一新を約束するこれらのことばは、しかし、「捕囚の民」だけに限られた約束として聞くことは、狭いユダヤ主義の誤りへ導く危険性があります。心に霊の一新を与えられる「良いいちじく」は、捕囚民の中からはじまるにしても、ユダに残された民にも与えられるものでありますし、それは、究極的にはイエス・キリストの十字架の受難と復活を通して与えられる恵みであり、その完全な義と聖に生きるものへと変える聖霊による「神から来る」新生・再生の出来事として、パウロはローマの信徒への手紙2章29節において、エレミヤ書の言葉を引用しながら語っています。

神はご自身の義を尊ばない選びの民を「悪いイチジク」としてさばかれますが、そこから、残りの者を「良いいちじく」として、その契約を更新し、霊のこころを与え、神の義を喜び、生きるものへと変えられます。そうして神の契約は、恵みの中で更新され、不変のものとして残される、という素晴らしい約束がここに語られています。

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