申命記講解

10.申命記9章1節―6節『偽りの敬虔主義への警告』

申命記9章1節-6節は、8章7節-20節同様、約束の地の土地所有に向けてなされた説教です。しかし、約束の地を取得した後の心理的状況に目を向けて語られています。ここで語られている状況は、イスラエルが神の助けによって、自分よりはるかに強い、諸々の国民を打ち負かすであろうという詳細な説明によって特徴づけられています。

ここで言及されている「アナクの子孫」は、その名前の由来「首の長い者、巨人」から巨人族とされています。彼らはカレブに追い払われ(ヨシュア15:14、士師記1:20)、ヨシュアによって滅ぼされましたが、ガザ、ガト、アシュドドにアナクの子孫が残っていたと言われています(ヨシュア11:21-22)。背の高いペリシテ人もアナクの子孫と考えられていました。ダビデと戦ったゴリアトもガトの出身でアナクの子孫とされています(サムエル上17:4)。

2節の「誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか」は、武勇に秀でたアナクについての伝説への言及です。

「しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。」という命令は、約束の地は、主の恵みの力によって与えられるものであるが、無償で授与されるものではなく、イスラエルが犠牲を覚悟で戦い取るものであることも同時に示しています(1:26以下)。このように、約束の地征服は、イスラエルの信仰の理解に誤解を生む危険を内包していました。

あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである。(4、5節)

モーセは二つの根拠に基づいてイスラエルが将来陥るであろう信仰理解の誤解について警告しています。

第一に、イスラエルの民が今から征服する国々は、彼らより強大で彼らの能力を超えている。しかし、イスラエルがその地を征服できるのは、「あなたが正しく、心がまっすぐであるから」ではなく、彼らの主(ヤハウエ)が、彼らの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たすために、それらの国々を征服してくださるという約束に基づくものであるという警告です。

第二に、主がその国々を征服してくださるのは、「この国々の民が神に逆らうから」であって、イスラエルの民が正しかったからではない。それは、どこまでも先住民の堕落が原因であり、ヤハウエが自ら立てた契約に、忠実であることの故である、という警告です。
イスラエルによって追い払われたカナン人は、自ら堕落していたが故に敗北を喫するということは、アブラハムに示された幻の成就でもあります。

「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
(創世記15:13-16)

この説教は、6章10節-15節、8章7節-20節同様、勝利に終わった土地取得の直後という状況に場面を設定しています。

「この説教者が恐れていた、この出来事がもたらす心理的な影響はこれとは違う別ものであった。それは、満ち足りて主を忘れるという危険ではなく、またイスラエルが起こった出来事を自分の誉れに数え、自分の軍事力に帰せしめるという危険でもない。そうではなく、説教者が恐れていた危険とは、敬虔を装った自己欺瞞である。イスラエルに対するヤハウエの業が、その真の理由を、イスラエルが誤解する方向へ促す可能性があったという。いずれにせよ、イスラエルの良き振る舞いは、その点において効力があったわけではない。なぜなら、イスラエルは過去において頑なな民であったし、現在もそうだからである。」(フォン・ラート)

この敬虔を装った自己欺瞞の信仰への警告に関するフォン・ラートの解釈は傾聴すべきです。私たちは、信仰の歩みに対する成功、祝福を全く神の恵みによる事柄であることを忘れて、自らが神の前の敬虔に歩んだ結果、あるいはそのように敬虔に生きれば神の恵みを勝ち得ると誤解しやすいのです。「敬虔」であることは、確かに信仰の在り方としては大切ですが、それを神の祝福の取り引きのように考える時、それは、神を欺く罪となります。そのかたくなさ、信仰の欺瞞は、過去にもあったし現在にもある問題であるとの説教者の指摘として見るフォン・ラートの理解は、わたしたちがいつも心に刻みこむべきことです。

旧約聖書講解