士師記講解

10.士師記9章1-57節 『王制試みの挫折』

9章のアビメレク物語は、士師時代においてもカナン人がこの地になおすんでおり、一掃されていなかったことを示しています。シケムの町は、南のゲリジム山と北のエバル山との間にあって、エフライム部族に割り当てられた地域に属していますが、この町は戦略上も交通の面でも重要な要所でありました。アブラハムの時代から深い関わりのある町です。創世記34章に記されているヤコブの娘ディナの汚辱物語は、イスラエルとシケムとの間における不幸な歴史でありましたが、この事件の背後には両者のあいだに親しみを感じさせられます。ヨシュアが告別説教をした場所でもあるこの地は、しかし、カナン人の手中に有りました。

シケムの神がバアル・ベリト(契約の主)と名付けられた事実が、その宗教とイスラエルの契約信仰との間にある親近性を示しています。とにかくここシケムでイスラエルと土地の住民とのあいだで、融合していた事実がこの9章の出来事を通して一層明らかにされています。

ギデオンは主の前に忠実な士師で有りましたが、彼がシケムの女をそばめとしたことは大きな失敗であったことが明らかにされる一方で、彼が略奪者として現れるミディアン人に勝利したことはイスラエルだけでなく、シケムの町の人々にも大きな利益をもたらしたことも明らかにされています。

アビメレクの母はギデオンのそばめ、またシケムの住民として、ここで描かれていますが、この事はこの物語で特に重要な意味を持っています。彼女は自分の町に自分の部族に留まって、時々夫の訪問を受けました。このような形における結婚によって生まれ出た子は、その妻の部族に属しました。このことがシケムの人々がアビメレクを喜んで王として迎えることを可能ならしめました。アビメレクの母はハモル(シケムの父)の影響力のある家族の人であった可能性があります。バアル・ベリトの神殿の宝を用いることができたからです。アビメレクは母の一族を巧みに利用して、シケムの人々の心を掴み、バアル・ベリトの礼拝に当てられていた銀七十シェケルを得て、それでごろつきを雇って、自分の兄弟であるエルバアル(ギデオン)の息子七十人を石のうえで殺しました。これはバアル・ベリトに献げる犠牲にするためであったのではないかと解釈する注解者もいます。

アビメレクは、ギデオンの血筋を引きますが、全く異教の信仰と生活と考えに完全に支配されている人でした。この時代に、いかにイスラエルが結婚を通して異教の習慣を取り入れ、主(ヤハウエ)への礼拝さえ、異教の神殿でしばしば行われたかを示す例としてこの出来事は物語られています。
しかし、アビメレクの手からギデオンの末子ヨタムが隠れてこの難を逃れました。神はしばしば悪のはびこるのを許容されるが裁きの道も用意されるお方です。ヨタムは正に人間のよこしまな願望によって支配しようとする悪の世にあって、その悪がいつまでも立ち行かないことを警鐘する預言者として立たされています。

ヨタムがゲリジム山に登って語った寓話は、オリーブ、無花果、葡萄という高貴な木々の拒絶がギデオンの王位の拒絶を示しています。そして、傲慢で価値のないいばらは、知恵も王位につく能力もないアビメレクを表しています。ヨタムは、アビメレクが人に信頼を与えることのできるような誠実な指導力を持った人物でないことを、寓話の解説を行うことによって明らかにします。この解釈を施すことによって、ヨタムはシケムの君たちを攻撃しました。また、ギデオンの勝利と指導力に報いる彼の子らの取り扱い方と無価値なアビメレクを王に就任させたことについて彼らを非難しました。これは、8章35節に語られている「彼らはまた、イスラエルのために尽くしてくれたエルバアル、すなわちギデオンのすべての功績にふさわしい誠意を、その一族に示すこともしなかった」という事実を示す出来事としてとして報告されています。

ヨタムは、もしこのことを彼らが誠意をもってしたのであれば、間もなく幻滅を味わうだろうし、その誠意はギデオンの場合には理解できても、アビメレクには理解できない。結果は彼らに不幸をもたらすだけだとヨタムは語ります。ヨタムは呪いを祈って高台から逃げました。

ヨタムはこの言葉を残して、舞台から消えていきます。しかし、彼の言葉の真実さは、起こった事実が語ります。ギデオンは主への恐れと信頼から王となることを拒みました。しかし、アビメレクはこの信仰を欠いて己の欲望を実現しようと王となることを求めました。自己の願望に生きるそのことが既に心に偶像を持つ行為です。それ故、彼には宗教も信仰も自己の願望を実現する手段でしかありません。

アビメレクの支配は3年間続いたと聖書は語ります。アビメレクの王として支配した地域は、実際には地方都市に限られ、強力なものでありませんでした。

アビメレクの神の権利を侵害する行為は、この歴史の中で反逆者の手によって裁かれていきました。23節の御言葉は、神がアビメレクとシケムの者たちの間に「険悪な空気を送った」と、神学的な意味が語られています。ヘブル人は、人間の人格が風のような霊的力によって襲われうるものであると理解しています。神はこの歴史の中で悪に悪を持って罰することをなさいます。その際、悪霊さえも用いる。ここに人間の理解力と制御の及ばない力が明らかにされます。イエス・キリストはまさに悪の世の主権者によって、十字架上で死なれました。しかし、悪の支配に委ねつつ勝利の復活を経験なさいました。十字架は表面的には、そして、一時的には悪の世の勝利に見えます。

アビメレクの支配・王となる出来事はまさにそうでした。しかし、神は彼らに歴史の主役となることを委ねつつ、その悪を打ち破られます。ごろつきの親衛隊を雇い、悪の手段によって多くの危機を乗り越えたアビメレクも、最後は一人のか弱い女の投げた引き臼の上石が当たって頭蓋骨を骨折して死にました。この尊大な王は、女によって殺されたと人に記憶されるのを恐れて、若者に彼の剣で自分を殺すように命じました。

神によって立てられたのでない神を無視して己を高くしようとするアビメレクの試みは、謙遜なギデオンの平和な40年の治めた日と比べるなら余りにも短い3年の支配でしかありません。しかも長寿を全うしたギデオンの生涯と比べて、一人の女の投げた上石で頭蓋骨を骨折して死んだのを隠すために部下の刀で殺してもらわねばならない惨めな最後は、神の御心を求めないものの哀れな最期を示しています。

こうしてヨタムの呪いは実現します。神はアビメレクとシケムの悪を彼らの頭上で報いられます。頭であられる主を忘れた王制の試みは、いつも惨めな結末を迎えています。サウル王の最後もそうでしかありえませんでした。しかし、御言葉は王を持つことが常に悪だとは語りません。主の御言葉に従った主の御心を求める王制でなく、悪の力に頼ったから挫折したのです。

主の御心を求めない人生も王制も立ち行かないことをこの物語は明らかにしています。

旧約聖書講解