詩編講解

53. 詩編111篇『主は御業を記念させ』

この詩篇は、礼拝祭儀で主の御業を記念するために歌われた賛美の歌です。この詩篇の詩人は、会衆とともに主に感謝を表す礼拝に参加することを無上の喜びとしています。そして、会衆と共に、神がその力と偉大さを、民に大いなる恵みと救いの御業をもって知らしめられた出来事を歌い上げています。作者自身、その救いに与かり、神の救いの力に捉えられていると信じていますので、「心を尽くして」会衆とともに、主なる神を賛美しているのであります。

神の偉大さは、その御業によって体験させられます。旧約聖書の信仰において、神は常に生きて働きたもうお方であります。旧約聖書において、抽象的観念的な神理解と信仰の理解は存在しません。神の御業はそれを喜ぶ者たちによって体験されるものであると理解されており、この詩人も、その理解の下で、この賛美の歌を歌っているのであります。

この歌が語る深い真理は、最も深いところで神に捉えられている者のみが、神を捉えることができるということであります。そのような霊的な眼差しと、神に向けられ捧げられた信仰の喜ばしい肯定的な心をもって物事を見るものだけが、御業のなかに刻み込まれている神の軌跡を見いだすことができる、というのが旧約聖書の神理解の最も基本的な前提であります。だからこの詩篇の作者は、神の行為のなかに麗しさと栄光を見、義と救いを見ることができるのであります。そして、そうした事柄のなかに神の秩序と権威を見ることができるのであります。

そして、作者は主なる神の救いの行動を、旧約聖書の祭儀伝統の中で考察するのであります。4節の「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」という言葉はまさに、それを示しているのであります。

神の救いの御業とその歴史をイスラエルの祭儀的な伝承として伝えることが神の意思でありますし、これらは神によって制定されたものであります。イスラエルの祭儀的な礼拝が偶像礼拝ではなく、真の神礼拝でありうるのは、その礼拝の形態に神の意思が表され、神によって制定されたものであるということが決定的に重要な意味を持っているからであります。これらの指定された祭儀行為は、神が歴史のなかで支配された現実の「記憶」を民の中に絶えず生き生きと保つためであります。そして、旧約聖書の祭儀においては、エジプトからの救いの伝承として過越の祭りが特に強く覚えられています。まさにモーセの時代は、イスラエルの民にとって神の恵みと憐れみが特別な形で表された時代でありました。その歴史の現実の直中で表された神の救いの御業は、あらゆる時代、あらゆる境遇にある者にとって、変わることなく信頼すべき神の救いの基礎でありました。祭儀において新しくそれを記念することは、今この時、この所でわたしに表される救いとして、信仰において理解できる事柄でありました。

それ故、この詩編は、古代の教会において、聖餐の礼典においてよく朗読されました。5節の敬虔な者たちの食事についての言葉は、救済史の伝承を伝える言葉の中で、繰り返し語られる荒野での天からのマナに最もよく一致します。神はシナイにおける契約において恵みの約束をしたことを、このような恵みをもって成就されるお方であることを示す徴となっているのであります。

古代教会がこの節を聖餐式と解したことは十分理由のあることでありますし、正しかったと思います。

6節は、かつて異邦の諸民族の所有であったカナンの地の征服を回顧しています。イスラエルの民族としての歴史、救済の歴史は、土地の約束と結びついていました。イスラエルはその神信仰と自らの民族のあり方とを土地の取得の約束をめぐり、神の約束の言葉に聞き従うかどうかによって問われ、それに対する応答を現実の歴史の中で示さねばならなかったのであります。イスラエルは自己栄化の目的のために生きることせず、ただ神の意思に仕えることが求められたのであります。そこに民としての真実な生き方を表す道が示されていたのであります。

7、8節において、主の言葉こそ、主の現在を指し示し、それを作り出す新たな力であることが告白されています。そして神の御業から「真実」と「公義」が明らかにされるのであります。神に対する人間の信頼と確信を可能にするのは、神ご自身であります。この歴史の中で表された神の意思を、祭儀という形で民に伝えることが、民の生活を秩序付け基礎付ける働きをし、勇気づける働きをしました。人々は、この秩序の中で守られていると感じ、様々な局面において対処する現実の力を得るよう導かれたのであります。

神はこの約束の言葉に従って、世界を審き、また救う方であられます。
それ故、作者は9節において、礼拝祭儀に参加するものは、何よりも主がご自分の民に贖いの御業を送る方であり、主ご自身がその契約を永久のものと定められたことを想起するように促しているのであります。この想起において立ち、主の御名を崇め礼拝することが民に求められているのであります。

主を恐れること、畏れ敬い賛美する礼拝を守ること、これこそが真実の知慧のはじまりであると作者は歌い上げているのであります。礼拝において賛美する信仰の歩みは永遠に続く、この生活の中で神の前における人間の真実と神の真実が出会い、救いは絶えず新しく想起され与えられ、深い感動の中で神の救いの現実を生きることができる、と作者は、この恵みを何時までも語り続けるのであります。それを語ることをやめることがゆるされないのであります。その信仰において、この詩篇は10節の言葉において次のように結ばれているのであります。

主を畏れることは知恵の初め。
これを行う人はすぐれた思慮を得る。
主の賛美は永遠に続く。

旧約聖書講解