申命記講解

7.申命記7章6節―11節『主の恵みによる選び』

ここには、なにゆえ、イスラエルの民が、エジプトのファラオが支配する奴隷の地から救い出されたかという根源的な理由が示されています。

先ず6節において、イスラエルは、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」と、二人称単数形で呼びかけられています。この呼びかけの言葉は、イスラエルが主(ヤハウエ)の聖なる民であり、ヤハウエの特別な選びによって、ヤハウエの所有に属する民として分かたれた民であることが明らかにしています。そして、「主は地の面にいるすべての民の中から、あなたを選び、ご自分の宝の民とされた」という言葉で、その意義が補われています。

イスラエルがなぜヤハウエの聖なる民、宝の民とされたのか、その根源的な理由が、7,8節において二人称複数形で、もう一度、特に聞き手に強く心に迫るように、ヤハウエ自身によって解釈が加えられる形で明らかにされています。イスラエルが所有している何かにあったのではなく、イスラエル自身の持つ優れた何かにあるのでもなく、第一に「主が心ひかれて」という世俗的概念であるハーシャクという語を用いて語られています。それは「好意を寄せる」という意味を持つ語です。イスラエルの選びの理由は、ただヤハウエがその自由な愛によって、一方的に「好意を寄せる」愛を示された故であることが明らかにされているのです。ただ愛するがゆえに、イスラエルを選んだのであるという、神の逆説的な愛の業によるという解釈を加えることによって、申命記は、救いは、神の恵みによる選びに基づくという独自の、しかし、新約聖書における、イエス・キリストの選びと救いの理解につながる、救いの神学的な根本理解を提示しています。

主の選びの理由は、さらに具体的に7,8節次のように記されています。
「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

主に選ばれたイスラエルは、他の民よりも数は少なく、強さや経済力の点でいえば、他のどの民よりも貧弱であった、といわれています。「ただ、あなたに対する主の愛の故に」、また、「あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」、その約束の成就としての救いであることが明らかにされています。アブラハム・イサク・ヤコブの神として、イスラエルに与えた約束を、主は何百年経っても忘れてはいないのです。神はご自身が与えた約束を想起し、その記憶を忘れることなく、歴史の現実の中で実現するということにおいて、この世界を支配しているのは、強国エジプトのファラオではなく、歴史と全地を支配する神ヤハウエであり、主の救いの御手の働きは、バビロン捕囚を経験したイスラエルの民にとっても、どの時代に生きる民にとっても、変わりなく、同じように与えられるという約束を含むものとして語られています。神の選びと救いは、時間も空間も、時代の状況も、どんな厳しさにも打ち勝つ形で実現するのです。

この神の恵みの選びを示されたイスラエルがなすべきことは、この恵みの神への信頼です。9節において、「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを」、という言葉は、主の民として選ばれた者の信仰の在り方を教えています。

そして、主を信頼する民として生きることは、主の御言葉に聞き、その教えを守って生きることです。申命記は、「この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる」という約束を加えています。神の律法(聖書の教え)は、救われた者にとっての『神の命に生きる』新しい規範です。選びの主を愛し、「その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる」という実にすばらしい祝福が語られています。主は、「その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる」というこの約束は、主が果たされるものです。主は「千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる」ということは、その恵みは永遠に失われないことを示す旧約的表現です。「千代」には、無限・永遠の意味があります。
主の恵みによる救いとしての選びと、選ばれた者の主の言葉に聞く信仰者としての歩みには、このような深い契約的絆が結ばれています。

そして、この契約は、神と人との間に結ばれた法としての意味も持っています。つまりこの神の恵みによる救いは、神の恵みに根拠をもつ点で、不変の絶対の恵みです。しかし、神と人とにある契約は、決して自動的に実現する救いではありません。そこに選びの恵みに与った人間の自由に対する責任を問うものである点で厳粛な契約でもあります。10節において、戒めを守らない者に下される審判の言葉が記されています。

「御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。」救いの約束は、「民」(2人称単数形の呼びかけからすれば、個人としての在り方も含む)としてのイスラエルに語られ、約束されましたが、その契約に違反する審判に関しては、「めいめいに報いて滅ぼされる」、個別的に示される報いとして語られています。つまり審きは、申命記においては、一代限りの個別的な責任性の問題とされています。戒めを守る者に与えられる千代にわたる慈しみに比べれば、主ははるかに寛大な裁きの扱いをされるのです。しかし、それが審きである限り、徹底したものであることも覚えなければなりません。このように審きと救いを語り、最後に、11節で、「あなたは、今日わたしが、『行え』と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。」と言って、主の教えに従って、ひとりひとりが主の民とされている恵みを覚えつつ、生きることの大切さが勧められています。

主の戒めを守るイスラエルに与えられる恵みは、旧約聖書においては、実にこの世的実際的な恵みとして示されます。それが12節-15節において明らかにされています。恵みは、約束の土地における農作物における祝福として語られています。約束の地カナンにおいて、イスラエルに祝福を与えるのは、土着の偶像の神バアルではなく、唯一真の神ヤハウエであることをイスラエルに覚えさせるためです。律法を守る者に約束された神の祝福が子孫の繁栄と存続であることの反対として、律法違反者には、病気などの災いによる命の減少が審きとしてなされることが明らかにされています。それは飼う家畜にも言われています。

この審きは、新約の光では、霊的かつ身体的にイエス・キリストの救いとの関係で理解されています。その違いは、約束と成就、光と影の対比として、新約と旧約の違いから見ることが求められています。
いずれにせよ、ここで強調されているのは、神の恵みによる愛による選びと救いです。

旧約聖書講解