詩編講解

67.詩編139編1-6節『神の全知』

詩編139編の詩人は、自分の個人的体験を通して生命全体が神の現実の中に置かれているのを見つめています。

1-6節は、神の全知について、
7-12節は、神の偏在について、
13-16節は、神の全能について語ります。
17-18節は神の本質についての内省がなされ、神の偉大さを捉えることは不可能であるとの人間的告白をもって終わっています。
19-22節は、全体の問題と関連して、神なき者を滅ぼしてくださいとの願いとなっています。
23-24節は、結びで神の試みと導きを個人的に歌っています。

この詩編の深い内容を十分に味わうには、何回かに分けてお話する必要があります。そこで今回は1-6節に限って共に学んでいきたく思います。

詩人は、賛美の祈りの形式において、神の全知をたたえ、神の測りがたい偉大さへの畏敬と驚きを表明しています(1節)。自分の人生を振り返り、人の心も行いも探り究め給う神の目の中を見つめ、その神の眼差しの下に自分は立っていたし、今でも立っていることを告白しています。

2-3節のように歌うことによって、詩人は、どこに目を向けても、座っていても、立っていても、歩いていても、伏していても、あらゆるところで絶えず見守っておられる神の鋭い眼差しに出会う現実を知る幸いな者にされています。

神は、彼の行動を見守るだけでありません。神は話す前でさえ、その言葉を知り、遠くからでも、その考えを見抜かれることを詩人は告白しているのであります(4節)。神がその人の語る言葉を知っておられるということは、その人の心の中にある考えを知っておられるということを意味しています。わたくしたちの考えが、すべて神に見抜かれているということであります。

この探り究める方の眼差しの前で、わたしたちの人生が築かれ、また崩れ去る。そこにものすごく大きな緊張と、畏れと、喜びとがあります。自分がどこにいても神の眼差しが注がれているということは、言い換えれば、自分の人生はもはや自分自身のものではなく、自分のためだけに持つことのできない神の御前での、神のためのものでもあるという大きな驚きと理解が彼の中に鮮明にされました。

わたしの人生は常に神の現実として存在している、との信仰がここから鮮明にされていきます。その喜びも、悲しみも、憩いも、苦しみも、人生はすべて神の現実としてある。それを神は共に担っていてくださる、と信仰の目で見ることができるのであります。神との間における「あなたとわたし」との関係において、「わたし」という存在を、神の意志と現実の目的として捉えることが許されるのであります。

わたしの存在を通して、神の意思・神の現実が表わされるとするなら、それはわたしの存在全体を神が包み込んでおられるということが意味されているのであります。前からも後ろからも取り囲んで神の御手が伸べられ守られている幸いと喜びほど、わたしたちを平安にするものは他にありません(5節)。

神は、わたしの存在をすべて究める全知の方であります。神はわたしのすべてを究めるけれども、わたしにはその神の知識を究めることはできない、決してその高さに達することはできない、と告白する以外にありません。人間の側からは神の本質を知ることはできないのに、人間はすべて神によって知られているという矛盾の中に置かれている、と告白する以外にないのであります。

けれども、人生の様々な状況の中で神とぶつかり、繰り返し神を意識する時に、神と人間との間にあるそのような矛盾に気づくことによって、はじめて、まことの信仰が生まれることを知るようになるのであります。

神の「その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない」(6節)との詩人の言葉は、神と自分との間にある知識の違いの隔絶した現実に絶望しているのではなく、神を喜び褒め称えているのであります。少なくとも、そのように卓越した知識を持つ全知の神に知られていることを知っている自分に、わたしたちは希望を持つことができるのであります。自分を見極めることが人生において重要なのではなく、神に見極められた人生がそこにあるという現実を知ることが、信仰において重要であり、希望であり、救いであるのであります。

神の全知は、苦悩して生きる人間の心を御存じです。その者の絶望している現実を知り、その人間を前から後ろから囲み、御手をその者の上に差し伸べて置き、守り導かれるのであります。そのような神に自分の苦悩絶望の問題が既に取り計らわれている現実を、信仰の目で見る者へと転換する時、すべての事柄に対して希望を持ってみることができるように変えられるのであります。全知の神を知るとは、そのようにわたしたちを変えるのであります。

旧約聖書講解