イザヤ書講解

55.イザヤ52章13-15節『神は僕を高く上げ』

イザヤ書52章13節-53章12節は、第四の僕の歌といわれています。「わたしたち」によって語られる告知(53章1-10節)は、神からの二つの託宣(52章13-15節、53章11-12節)枠づけられています。その最初の枠を構成する52章13-15節は、委ねられた使命を全うしたこの僕を、神は「高く上げ」、人々から「崇められる」幸いを与えたことを歌っています。

僕は「栄え、高く上げられ、あがめられる」といわれますが、彼が栄光を受けるに至る道は普通の人の道と全く異なっていました。彼は王的な職務を持つ預言者でした。しかし、42章の第一の僕の歌において既に明らかにされていたように、彼の王としての働きは普通の地上の王の働きと全く違っていました。「彼は叫ばず、呼ばわらず、巷に声を響かせない」のです。その威厳を地上の王のように尊大さにおいて示しません。むしろ弱い者に目をむけ、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯芯を消すことのない」よう配慮し、自らその傷を負い、痛みを担うものとなることが、僕として召された時に主から告げられていました。そして、50章4節以下の第三の僕の歌においては、彼は僕として「疲れた人々を励ます」働きをするのですが、その故に、人々から迫害を受け、「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬を負かせ、顔を隠さずに、嘲りと唾を受け」ても、「顔を硬い石のように」して忍耐し、「主なる神が助けてくださる」のを待ち続けると歌われています。

このように僕は人々から蔑まれ、辱められましたが、すべてを堪え忍び、ついに主なる神によって高く上げられ、栄光をうけ、人々から崇められる者となると、この第四の僕の歌において歌われています。しかし、それは、「誰も物語らなかったこと」であり、「一度も聞かされなかった」前代未聞の驚くべき出来事であったと報告されています。

先ず彼の風貌を見て、多くの人々は「驚かせ」られ、「王たちも口を閉ざした」といわれています。人々が驚いた理由は、「人とは見えない」「人の子の面影のない」ほどに「姿の損なわれた」その外貌にありました。

14節で「姿が損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」としか記されていない外貌(がいぼう)のみすぼらしさは、53章2節後半から3節ではもっと具体的に、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」といわれています。

あまりにも過酷な苦難、人の外貌を損なう苦難は人を遠ざけてしまうことがあることをこのように歌われていますが、それは、嘆きの詩編やヨブ記(2:13)においても記されています。身体的な美しさは、旧約聖書にいて祝福された者に固有なものとして表されることがよく見られます。例えば、イスラエルの最初の王に選ばれたサウルはその容姿の美しさにおいて及ぶものがなかったといわれています。

人は外貌によってその判断を左右されやすいのです。人は姿の醜い人、過酷な苦難に遭った人、外貌を損なう苦難に遭った人から遠ざかり、軽蔑し、見捨てることをいたします。今日においては大人の世界だけでなく、子供の世界においても、いじめや差別が行われています。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」と53章3節で言われています。人々は彼の醜い姿を見て驚いただけでなく、彼を軽蔑し、見捨ててしまったと言われています。彼は病を知る人でありましたので、病による痛みや苦しみを知っていました。しかし、彼が知っていたのはそれだけではなかったのです。人々の軽蔑や無視に遭い、心の痛みも知っていたのです。彼は人とは見なされなかったのです。人から見捨てられるということは、人として扱われないということです。

しかし、旧約聖書は身体的美しさが祝福の絶対的な基準でないことも明らかにしています。サウル王が主の御心を行う者でないことが判ると退けられ、ダビデが変わって王に任命されますが、彼に油を注いで王に任命する役を司ったサムエルは、最初ダビデではなく、エリアブに油を注ごうとしました。それは、容姿の美しさを見ての判断でありました。しかし、サムエルに告げられた主の言葉はこれとは全く違うものでありました。「容姿や背の高さに目をむけるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によってみる」とサムエルは告げられています。

ここに主なる神の判断基準があります。彼の外貌の貧しさ醜さ弱さは神の御心によるものであったことが、53章4節以下に明らかにされています。彼は人を罪から救うために、人の病を負い、罪を負い、打ち砕かれて、自ら進んで苦しみ、見捨てられる苦しみを背負われたのです。

しかし、その姿を見て人々は、自分たちのために彼が苦しんでいることに気づかないでいたのです。彼はただ神の手にかかって打たれ苦しんでいるだけだと思っていた、といわれています。

このあまりの損なわれた姿に多くの民は驚き、目を背け、見捨てた僕を、しかし、神は高く上げられました。

人々の第一の驚きが、彼のその外貌の醜さにあったなら、人々の第二の驚きは、それをはるかに凌ぐ驚きでありました。それは、この醜い、人とは見えない、人の子の面影もない僕を神が高く上げたことにありました。

15節の「驚かせる」(ヤッゼー)は、字義通りには、「破裂させる」です。彼を神が高く上げられるというその行為は、民の心臓を破裂させるほどに驚かせる出来事ありました。こうして上げられた彼を見て、「王たちも口を閉ざす」といわれています。僕の高挙には王たちは驚いて「口を閉ざし」沈黙してしまうほどであったということです。

このように姿が損なわれた人物、人とは見えない人物、人の子の面影のない人物に、栄光を与え、高く上げ、崇められるようにする神の業は、これまで一度も誰も見聞きしなかった「前代未聞」の出来事です。これまで一度も存在しない、決して語られたことのない、そういう驚くべき出来事です。これを知った人は心臓を「破裂させる」ほどの驚きを覚える出来事です。これはイスラエルの長い歴史の中にも見られなかった出来事です。そういう意味でかつて一度も物語れない、一度も聞かされなかったものであるばかりか、今後も二度と起こらないただ一回限りの出来事です。

この僕の苦難は第二イザヤ自身のものです。しかし、このように「高く上げられ、あがめられ、栄える」僕は、彼自身の体験にはありません。それは、約束として語られ、彼はその様なものの出現を待ち望み、現在の苦難を彼は耐え忍びつつその日の来るのを待ったのです。

そして、この第二イザヤと呼ばれる無名の預言者が書き記したこの僕を、新約聖書はイエス・キリストを指し示すものであると理解しています。この預言において指し示された僕像は、イエス・キリスト以外に当てはまるものがありません。それゆえ、新約聖書はこの僕の歌が、イエス・キリストにおいて成就したことを告げています。主イエスが地上を歩まれて、人から見捨てられた人々と交わり、貧しき者と交わり、病の人を癒されたのは、この僕の歌に歌われた僕として歩まれたからです。十字架の苦しみみは、この僕としての苦しみでないとしたら、滑稽で憐れな人間の苦しみでしかなくなります。しかし、キリストはその苦しみを通してわたしたちの罪を背負い、その贖いを成し遂げる救い主となられたことを明らかにされたのです。

そして、十字架に上げられたこと、十字架上で死なれた主イエスが三日目に墓より復活し天に上げられたことを新約聖書は報告していますが、それは、正しくこの僕の歌で僕が上げられたと歌われている預言の成就としての出来事であったということです。フィリピ書2章6-8節にそのことが明確に述べられています。

神は人となり僕として己を貧しくして十字架の死に至るまで従順に歩まれたキリストを高く上げられたとフィリピ書は告げています。第二イザヤは、42章1節で主なる神から、「わたしが支える者」といわれていました。それゆえ、受難の僕として第二イザヤが受けた苦しみは、主なる神が支える者として彼の苦しみもまた担っておられるということです。キリストが「支える」その御手によって、彼もまた贖われる運命にあったのです。「主は御腕の力」この僕の弱さに表されました。そして、そのようにして同じ弱さを持つ者に「主は御腕の力」を表し、僕に信頼する者に僕と共に高く上げるとの約束を与えてくださっているのです。この前代未聞の驚くべき救いは、イエス・キリストを信じる者に与えられる恵みとしてもたらされます。この第二イザヤのように、主なる神の支えを信頼して現在の苦難を堪え忍ぶ者に、神はキリストにあって、高く上げてくださるのです。

パウロはⅡコリント12:9-10で言っています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」、と。

「主は御腕の力」を弱さの中に表されます。それは、主イエスの十字架と復活において明らかにされています。この受難の僕の第四の歌は、主イエスの十字架の受難の姿を指し示し、受難の後復活されるキリストの栄光を示しています。

そして、わたしたちのためにこの苦しみを耐え忍ばれた主イエスは、わたしたちにその苦しみを耐え忍ぶ信仰を与え、この同じ「高く上げられる」栄誉と喜びにも与らせてくださるのです。

旧約聖書講解