エレミヤ書講解

33.エレミヤ書21章1-10節 『ゼデキヤ王と民への使信』

21-22章には、王国に対する裁きがテーマになっています。それは、民を平和と正義のうちに統治すべく立てられた王たち(23:1-4)、あるいは理想の王(23:5-6)の下で、王国が将来更新され回復されることに関する希望というテーマへと変っています。そして、23章7-8節のそれら全体を締めくくる短い章句は、新しい「出エジプト」によって、将来捕囚民をその故国に回復することを告知しています。こうした編集を行ったのはエレミヤ自身であるとは考えられません。そこにはエレミヤに由来する言葉が含まれてはいますが、エレミヤの元来の言葉を拡大発展させて、捕囚の状況から将来の希望を語ろうとした申命記主義的編集者たちによる編集の手が加えられている可能性が高いと考えられている箇所です。

21章1-10節は、21-24章の全体の序としての意味があります。ここには、紀元前588年、バビロンの王ネブカドレツァルの軍隊によってエルサレムが包囲され始めた時期に語られたエレミヤの二つの言葉が編集されています。20章までにエレミヤがヨヤキム王の時代に行なった数々の預言の言葉が記され、その預言の言葉に続き、それから10年も経って語られた言葉が記されています。そのことにまず注目する必要があります。エレミヤはヨヤキム王の時代、エルサレムに下される神の審判を語りました。しかし、20章のエレミヤの嘆きの言葉に見られるように、その預言は聞かれることはありませんでした。けれども、それから10年経って、バビロン軍によるエルサレム包囲という事態に直面したとき、ゼデキヤ王は宦官のパシュフルと祭司ゼファニヤとを、預言者エレミヤのもとに遣わしました。パシュフルと祭司ゼファニヤとは、王の宮廷において政治的・宗教的指導者の地位にある高名な人物でありました。そのような人物を遣わしたということから、この派遣が公的な性格を持った重大な事態であったことを物語っています。そして、このことはまた、情況がエレミヤの預言したとおりに変化してきたことを示すとともに、ヨヤキムの時代に比べ、エレミヤの名望が高まってきたことを示しています。

ゼデキヤ王が二人の使者によって預言者に伝えた依頼の内容は、エルサレム包囲によって起こされた困難な状況下にあって、神よりの託宣を取り次いでほしいというものでありました。神の御心を取り次いで知らせてほしいというゼデキヤ王の託宣依頼には、神が民を救うために奇跡を起こし、町を包囲する敵の手から解放してくれるようにとの期待も含まれていました。ゼデキヤ王は、前701年にアッシリアのセンナケリブが攻めてきたとき、エルサレムが救われたことを想起して、このような行動を取ったのかもしれません。そのとき、ヒゼキヤ王が神に祈り、預言者イザヤは、ヒゼキヤ王に人を遣わし、神の町が決して侵略されることはないと告げました。その時とったイザヤのような行動をエレミヤに期待したのかもしれません。ゼデキヤ王はエルサレム包囲という事態を人間的にどうすることもできない窮余の事態と見て、このような助けを求めたのでしょう。

重要なのはこれに対する神の応答です。ここにおいて、神は、人間が過去の伝承から導き出したがるような都合のいい何らかの法則に縛られることなく、行為されることを示されます。エレミヤはゼデキヤ王が期待したような神託伺いを立てるどのような行為もせず、神からの応答の言葉だけを伝えています。明らかに、この事態を支配する神の言葉に力点が置かれています。

ヤハウェからの応答は、実に王の期待を粉砕するものでありました。神は、王の勝手な期待に束縛される方でありません。神は、敵の軍隊にさえ、その主権を全き自由の中で行使されるお方です。確かにゼデキヤ王が期待したように、神は自ら戦われます。しかも、ここでは、神の民のためではなく、神の民に敵対して神は自ら戦われます。神はエルサレムの城壁の外側で戦闘に従事するユダの兵士たちを強いて、町の中に撤退させ、敵の包囲の輪を狭め、徹底してエルサレムを打ちます。ゼデキヤ王が期待し、エレミヤに要請したのは、「神の伸ばされた手と力ある腕をもって」自分たちに味方し救われることでありましたが、ヤハウェの答えはその意図とは裏腹に、「神の伸ばされた手と力ある腕をもって」自分たちに敵対して戦われるというものでありました。「神の伸ばされた手と力ある腕をもって」という言葉は、普通、神の民に対して、わけてもエジプト脱出の際になされた神の救済行為の威力を示すものです。この語は申命記的な用語です。ここには申命記主義者の編集が加えられている可能性があります。ここでは、この語はイスラエルにくだされる神の審判を表す言葉として用いられています。それは、神の契約から見れば、今や、イスラエルには救いではなく、審判が下されてしかるべきだということが不可避なこととして強調されています。

6、7節には、エルサレムと王とに下される審判の模様が描かれています。恐ろしい疫病がエルサレムの住民に襲い滅ぼすであろう。そしてこの疫病を逃れて、生き残った者も王も王の宮廷で使える者たちも、ネブカドレツァルに捕らえられ、無慈悲に殺されるであろうと告げられています。ここで見逃してならないのは、この審判の主体がヤハウェであり、このような出来事の起因者がヤハウェであるという点です。言い換えると、バビロンの王でさえ、神の手の道具に過ぎないということです。エレミヤはここにおいて政治的な判断によってこれらの言葉を語っているのでありません。神がすべての歴史の主として、神ご自身の絶対的な権能を持って、これらのことをなされる、という根源的な認識をエレミヤがここで示したということが重要な意味を持ちます。そしてこの認識こそが、捕囚時代の申命記史家に希望を与える言葉として受け止められました。

現在の事態が神の審判としてなされている限り、その審きに服し、神への真の悔い改めをあらわし、真の信仰を回復させる以外に、この民に希望がないことを示しています。それゆえ、エレミヤはこの審判の言葉を王の問いに対する答えとして語った後、民に向かって、一つの決断を迫る言葉を語るよう、主から命じられます。

預言者の語るこれらのことばは、神の恵みに与からせるための招きとしての意味を持っています。もし民がヤハウェによって提供されたその機会を正しく捉えることが出来たなら、6、7節でなされた威嚇でさえ、緩和されると告げられています。次の言葉は申命記の神学の理解が反映されています。「見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。」神は審判において二重の判決をくだされます。こうして、神はご自分の民をひとりひとり決断の前に立たせています。

いまや民には、町にとどまることによって、剣や、飢えや、疫病によって死ぬのか、それとも、降伏することによって少なくとも生命だけは救われるのか、このどちらか二つの可能性しか残されていないことが明らかにされます。

エレミヤがとった態度を、国家政治的観点からのみ見て、これを裏切り行為と判断することは適当ではありません。なぜなら、エレミヤ自身は、別の機会に、敵の下に投降したとの不名誉な嫌疑に対し、力を込めて自己弁護していますし(37:14)、また、彼を臆病呼ばわりする非難については、痛ましい最期を遂げるまで真実をもって耐え抜いたエレミヤの生涯自体がこれに反論する証左となっています。この時、エレミヤが前597年に降伏することで命を救われたヨヤキムの例を思い起こしていた、ということはありえないことではありません。戦闘の続行が民を無意味な自殺行為に追いやる結果になるのは、目に見えていたからです。

しかし、エレミヤがここで語らうとしている真意はもっと別のところにあります。エレミヤにとっても、民にとっても、根底において重要なのは、政治的判断をすることではなく、神に対する信仰と服従の宗教的決断をすることであるからです。それは、27章6節に明らかにされているように、すべての国々を「神の僕」であるネブカドレツァルに仕えさせる、という神の意志に従うことが求められていたからです。従って、ネブカドレツァルに服そうとしない者は、実は、神の意思に反抗する者であり、この者には神の審判が下されると、27章8節で明言されています。

民の判断がどうであれ、エルサレムの町に下されたヤハウェの審判は確固不変です。10節の審判の宣告をもって、この預言の言葉が締め括られます。しかもそれによって、何故ヤハウェはなおもこの民に、二つの道を開いておられるのか、という理由が示されています。この未来展望を示そうとしたのはエレミヤではなく、申命記主義の編集者であると考えられます。「わたしは、顔をこの都に向けて」という言い回しは、審判のためのヤハウェの顕現を示します。神は神の確固たる審判の決定をかくも厳しく指定することによって、民が生か死かの決断の前に立たされたこの歴史の展望を、もう一度、据え直そうというのであります。

神は審判に下る滅ぶべき者にも、御顔を向けておられる、その事がまた審きの後に示される救いの希望の光であるとエレミヤの言葉を敷衍して聞いたのです。それは捕囚の民にとって、自らの信仰を、希望を持って立て直すために重要な意味を持っていました。伸ばされた神の御手、向けられた神の御顔は、不可避な裁きを示すだけでなく、真の悔い改めと信仰を呼び覚ます救いの呼びかけをも示しています。今は神の裁きに服しつつ、御声に聞き従う者には、後の日に、伸ばされた神の御手、向けられた神の御顔が再び救いの確固たる確信となるからです。この希望の下にその苦難を耐え、もう一度神の声となった預言者の言葉に耳を傾け、神の御手が示される日が来るのを待ち望み、都の回復と解放の希望を失わず待ち望む言葉として聞いたのです。その姿勢は、また今この時代にあってエレミヤの言葉をどのように新しく聞くべきか、わたしたちに大きな示唆を与えてくれます。

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