エゼキエル書講解

25.エゼキエル書21章23-32節『エルサレムへの攻撃』

ユダとアンモンがバビロンの主権に対して反抗する同盟を結び、南シリアにおける同盟結成の支柱となったという知らせが、バビロンの宮廷に届きました。それは、エルサレムの滅亡の時を早める愚かな同盟に過ぎませんでしたが、ゼデキヤはその愚かな選択をしました。主なる神は、その愚かな選択がいかに間違いであり、ご自身に対する背きの罪であるかを明らかにし、敵の手に渡すことを明らかにするために(29節)、エゼキエルにその御旨を明らかにされました。23節の「人の子よ、あなたはバビロン王の剣が来るため、二つの道を用意せよ。」という命令がそれです。一つは、ラバ・アンモンで、もう一つはエルサレムに至る標識で、これらの標識はエルサレムの運命が決定されることを示すしるしとしての意味を持っていました。

その出発点として考えられているのが、ネブカドネザルのシリア遠征の本営となったオロンテス河畔のリブラか、バビロニアかははっきりしませんが、バビロニアの懲罰遠征部隊の攻撃から身を守ることがいかに不可能なことであるかが明らかにされます。

バビロニアの大王が自ら征服戦に参加する場合、古代の東方の国においてはどこでも行われたのと同じように、神の意思を尋ねるため、占いが行われました。ここにはテラフィムとバビロニアの特徴的占い法であるほふられた家畜の肝臓で占う二つの占い方法が採られました。バビロン王がこのような占い術を用いるのは、彼が自分たちの神々に仕えるものであることを示し、あらゆる手段を用いて入念に神の意思を尋ね求めるためです。その信仰のあり方は、真の信仰から見れば間違いであることは明らかです。しかし、真の神を知らないバビロン王でさえ、南の小国の反抗的行動に対して、先ず神意を問い、その上で行動を起こす信仰的態度を取ろうとしているのに、ユダの王もエルサレムの住民も、主の御心に尋ね聞くことを第一とせず、人間的な愚かな知恵判断に基づいて、アンモンと手を結ぶことによって、その危機的な事態を乗り越えようとしていたのです。

しかし、エゼキエルは、主がバビロン王を用いてイスラエルの罪を告発し、バビロン王がご自分の僕としてその裁きを実行するものであることを明らかにするために、主からこれらの言葉を告げられたことを明らかにしています。

このバビロン王の占いは、エルサレムの住民の目には空しい占いのように受けとめられていました。しかし、主は、この判断の誤りを決定的に明らかにするために、「彼らは自分のために立てられた誓いに頼っている。しかし、それは彼らの罪を思い起こさせ、彼らは捕らわれの身となる」(28節)、という決定的な裁きを告げられました。

エゼキエルは、エルサレムに認められていた恩恵の期間がもう終わったことを告げ知らせる役割を、主から与えられた任務として行っています。しかし、エルサレムの住民は、エゼキエルが告げるエルサレムに対する裁きの言葉を拒否しました。その際、彼らは、それは偽りの神による占いである故に「空しい占い」であるという一見もっともらしい理由を示しましたが、それを手がかりとして、エゼキエルの告げる主の使信を拒んだに過ぎません。彼らのこの判断の背後には、主とエゼキエルに対する執拗な不信がありました。

エゼキエルは、そのエルサレムの不信仰を告発するために、「主なる神はこう言われる」(29節)と言って、その裁きの言葉を告げています。誓いを破るために誓う者には、聖なる神の報復以外に考えられません。主なる神は、懲罰軍の装いをしている異邦の王を告発者として、ご自身の民の中で悪を働く者を今こそ罰することで、ご自分が真の神であることを思い起こさせようとされているのです。「自分のために立てられた誓い」(28節)とは、エゼキエル書17章13,19節に見られるゼデキヤの誓いであり、ゼデキヤは、バビロン王と結んだ誓いを破り、アンモンと結び、エジプトを頼って反乱軍を組織したことを指しています。

主への信頼を置いていない者の試み、計画はすべて挫折させられます。主の民の罪に対する裁きは、与えられた恵みが大きいだけ、他の者たちよりも厳しく向けられます。そして、民の頑迷さについて、結局のところ責任のあるのは王です。破滅が迫っている今も、民の悔い改めることのない自己信頼を最も強く支えているのは王です。だからイスラエルの王であるゼデキヤに対しては、普通なら認められている王の不可侵性が、その不信仰のゆえに取り消され、その神聖さを汚すゆえに、厳しい呪いの言葉が容赦なく向けられることになりました。

「頭巾」(31節)には、大祭司の頭の飾りを指す言葉が用いられていますが、捕囚期以後は王の衣装の一部として用いられていました。王にふさわしい高価な冠が取り去られ、「高い者が低くされ、低い者が高くされる」(31節)主による裁きが行われます。それはかつてエレミヤが告げていたことの成就でもあります(エレミヤ13:18)。イザヤ書2章12節以下の主の日の叙述と同じ線上でこれらの審判の言葉が告げられています。神の敵が神の民の中で打倒されて行くことは、一切の人間的傲慢さが全世界にわたって屈服させられることと密接に関連していることを、主は露わにし、ご自分が世界を支配する主であることを明らかにされるのです。

ユダの都エルサレムの破壊とそれによってもたらされる混沌は、エレミヤがかつて見た幻と同じ姿で訪れます(エレミヤ4:23-26)。
「お前の日が、終わりの刑罰の時」を、7章の主の日の歌と結び付けて理解する時、ゼデキヤへの裁きが行われる日は、何の新しいものも生じないと思わせる程きびしく臨みます。

「荒廃、荒廃、荒廃」(32節)と三度強調し、差し迫った裁きの厳しさが残酷なまで強調されています。

しかし、来るべき者(バビロン)が神の正義をもたらす者であり、それを実現する事を神から委ねられているというのであれば、廃墟と化してしまう世界の極端な破滅もまた、神の秩序の新たな創造を積極的に指し示す意義を持っています。それがどのようにしてなされるかは一切触れられていません。しかし、「それは権威を身に帯びた者が到来するまで」(32節)、バビロン王に委ねられた権威に過ぎないことが明らかにされています。

「権威を身に帯びた者」とは、創世記49章10節の以下のヤコブの祝福の言葉を根拠に語られています。

王笏はユダから離れず
統治の杖は足の間から離れない。
ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。

ヤコブの祝福の言葉は、絶大な重みをエゼキエルの言葉に与えて、ひたすら神の支配の樹立に向かうものとして意識されています。

旧約聖書講解