詩編講解

27.詩編第36篇『命の泉』

この詩篇は、明瞭に二つの部分に分けることが出来ます。2-5節において、罪に支配されている人間についての克明な性格描写がなされています。そして、6-10節において、賛美の歌の形で神の恵みと義、恵みのうちに生きることを許されている人間の幸いが讃えられています。しかしながら、この詩篇を二つの別個な詩に分けてしまうことは出来ません。何故なら、作者は、末尾の11節以下の祈願において恵みの保持を乞うた後で、もう一度、神を信じない悪人たちに言及しているからです。

この詩篇は、罪の存在が信仰に対して課する深刻な問題を洞察する中から生まれてきました。罪の現実は、いかなる点で神の義に対する信仰と調和するのか。この難問を解決するのは、頭の中でいくら調停しようとしても無駄であり、不可能です。それには、神への信仰を決断する意思と信仰告白とが必要です。いっさいの懐疑にもかかわらず、信仰者が神の側に賭けることによって勝ち得たものを、この歌は美しい生き生きとした姿で証言しています。この信仰告白の歌は、神との親密な交わりの記録であり、この詩の作者は、神における幸いがいかなるものであるかを自分の経験から知っていて、それを語りうる人間であります。

早速、2-5節において作者が行っている罪に支配されている人間についての洞察を見てみましょう。

作者は、「神に逆らう者に罪が語りかけるのが わたしの心の奥に聞こえる」という表現で、人間に対する罪の影響力を描いています。人が心の中で聞き取る罪の声は、悪人にとって、神が預言者に対して語りかける神の声と同じ権威と威力を持っています。「罪が語りかける」ということばのうちには、皮肉と深い洞察とが同時に示されています。神に逆らって自分が自由だと思っている人間は、「神に対するいかなる畏れも」抱いていないことを自慢し、その生き方において神の支配から逃げおおせると信じています。しかし、その人は恐らく自分でも気づかないうちに、いっそう苛酷な支配の下におかれ、全く別なものを「神」として崇めるようになります。即ち、罪を「神」として崇めて、そこに従属するようになるのです。神が支配しないところでは罪が支配するようになり、逆に、神への畏れの欠如は、罪がその人の本質となり根源となります。これが神から自由になれると思い込んでいる人間の見せ掛けの自由の姿です。そのような人間は、神無しに悪魔的な勢力のささやきに身を晒し、無知と迷妄と自己欺瞞によって、そのささやきに屈伏してしまいます。

3節は、罪と自己欺瞞とに対する不可解な隷従について説明しています。3節で作者が言わんとしていることは、罪は真実が何かを判断するための尺度をことごとく人間から奪い去り、その眼差しを変化させて惑わすので、自由を見出したと思い込んでいる人間が、神の前で咎と憎しみに陥ってしまうということであります。このように罪における悪魔的な力の働きが鋭く観察されています。罪に陥った人間は、罪によって現実を見損ない、罪のまやかしと自分の迷妄によって、自分の期待とは似ても似つかぬところで朽ち果ててしまいます。

4、5節は、根本的な姿勢がこのように倒錯している以上、罪人のことば、行い、考え方も、倒錯した悪に満ちたものとなっても何の不思議でもないという事実を明らかにしています。神なき人間は、真理の変わりに悪と偽りを語り、賢いよい行いを捨てます。夜、寝床のうえですら悪を思いめぐらし、昼間は何の躊躇いもなく悪の道に入ります。これが神なき人間の姿です。知らないあいだに罪の虜となり、明晰な判断力が奪われていきます。罪がその人を現実から免れさせ、ますます迷妄へと導いていくからです。罪の真の恐ろしさは、まさにこの点にあります。

これに対して、作者は6-10節において、神の恵みの下にある人間について描写します。この詩篇の作者が現に見て生きている現実とはいかなるものでありましょう。作者が見ているそれなしでは生きることの全体が不可能であるという究極的な現実、それは神であります。この詩篇の作者は、罪と罪人に対峙するものとして敬虔な人間の理想像を決して描こうとしません。彼はただ、神について、また神が人間に対していかなる意味を持つかという点について、賛美の形で語るだけです。ここに対峙させられているのは、人間中心的な人間を中心に据えた考え方と、徹底的に神の側から規定されている神中心的な考え方であります。この考え方の決定的な断絶によって、罪と信仰とは、初めから常に分けられているのであります。

しかし、私たちがここで心に留めておくべきことは、二つの根本的に異なる態度の相違だけではありません。へりくだりと信頼からわき起こってくる神への賛美の告白は、それ自体が信仰による祭儀行為であり、礼拝行為であります。この行為によって作者は、罪の現実と神の現実との双方が自分に課せられた深刻な問題を把握することができ、同時にそれを解決することができました。作者はその解決を頭の中の討論によってではなく、信仰による神への決断によって得ることができたのであります。

6、7節に見られる作者の賛美の歌は、驚嘆と畏怖の念に、また、喜ばしい感謝と謙虚な信頼に貫かれています。そしてこのことが、この詩篇の作者の信仰が本物であることを示しているのであります。

無窮の天空と大空とに至るまで、神の慈しみと真実とが満たされると作者は歌います。神の恵みは、天地創造このかた、確固不動の山々のように揺るがず、神の現実はあらゆる空間・時間を包摂し、この世界とその中に生きるものにとって、永続的でかつ堅固な土台であります。人であれ、獣であれ、生きとし生けるものはみな、神の救い(助け)を必要としているのであります。世界に住むすべてのものが神の御手から恵みを受けることによって生きているのであります。この詩篇の作者は、その現実を聖所における神との出会いの際に示された全き救いの確信として語っているのであります。まるで母鳥の翼の下にいる雛のように、自分が神のみ翼の下に守られていることを知ることができました(8,9節)。このことを知ることこそ幸いの極みであります。聖所におかれている契約の箱のうえには、ヤハウェの顕現を現すケルビムが翼を広げ、ヤハウェの臨在を指し示しています。その姿に現されているように、信仰共同体であるイスラエルには、神のみ翼のもとに憩う平安が与えられているのであります。

イスラエルに与えられる恵みはそれだけではありません。神の家における犠牲の食事は、神との交わりのしるしとして、もっと大きな喜びもたらします。イスラエルは、契約祭儀で神の家の客として、贈り物として神から贈られた犠牲にあずかる幸いを与えられているのであります。それ故、イスラエルはその犠牲にあずかることによって、神の惜しみない恵みを体験させられることになります。このように礼拝は神と人間とをつなぐ架け橋であります。そこで示されるのは感覚的なしるしですが、礼拝者は、そのしるしを通して、神の霊的な現実の確信へと導かれるのであります。礼拝祭儀において肝心なのは神であります。イスラエルの礼拝において大切なのは、この世の物を用いて神からの恵みを示されますが、それをこの世の贈り物として感覚的に喜ぶのではなく、神の喜び、神への喜びに与ることであります。それは、魂の底から神を慕い求めている人間に対して、神自らが授けたもう喜びにほかなりません。

10節は、祭儀を恵みの神との出会いの場所と見るこの深い捉え方を、更に視野を拡大して、更に雄大な信仰の見通しと包括的な真理について言及しています。

命の泉はあなたにあり
あなたの光に、わたしたちは光を見る。

この言葉のうちに示されている認識は、創造信仰に言い表されている神が統べての根源であるということに止まりません。ここに示されているのは、神との交わりのうちにこそ、「命」という名に値する真の生き方があるという、もっと深い生の根源から出た認識であります。ここに現されている神観の幅広さ、奥行きの深さ、認識の高さが、ここでは、人生とは神から与えられ神と共に歩む交わりであるという、深い洞察を生み出しているのであります。神がいなければ、人間は太陽のない地球のようなものです。神の「光」、即ち神の臨在による天の輝きのうちで、人間の生が育まれ、成長し、意味と明晰さ、力と永続性とを与えられていくのであります。神がいなければ、人間の生は無意味となり、暗闇と破壊に呑まれてしまいます。私たち人間は、神のうちに生き、神によって生きることによって、神の「命の泉」の中で真の生きる喜びを知り、活動し、存在することが出来るのであります。

それ故、11節以下の祈願は、人間は神の恵みによってのみ生きることが出来るという認識に立って、自然な形でなされています。この詩篇の作者の祈願には、不確かな、焦りを伴う欲求は少しも見られません。むしろ沈着な神信頼への確信が漲っているのであります。

旧約聖書講解