エゼキエル書講解

33.エゼキエル書36章1-12節『イスラエルの山々への約束』

34章において与えられていた約束は、主が真の牧者として、ご自分の羊の群れイスラエルを、良い牧草地に導き、安らぎの救いを与え、二度と諸国民の略奪に遭うことのない救いを与えることです。イスラエル(ユダ)を滅ぼし、この民の主だった人々を捕囚にし、ユダの地に残った多数の貧しい人々を、荒廃した状態にして支配していたのはバビロンですが、そのバビロンがパレスチナの領有権を主張して支配を強めた時、エジプトがそれを阻止するために兵を送ってきたため、それに対応しなければならなくなったバビロンは、モアブやエドムを用いてユダを攻めさせました。特にエドムは、弱っているユダの背中から攻撃を加え、その山地を支配し、大打撃を与えた憎むべき敵となりました。エドム人は、死海からアカバ湾に向かうアラバの東セイルの山地に住む人々でありました。このエドム(セイルの山)を荒れ果てた廃墟とするという主の報復の約束が、35章に明らかにされています。

36章1―12節は、エドムによって荒廃させられたイスラエルの山々を回復し、エドムを荒廃させ廃墟とするという主の審きと救いがどのようになされるか、なぜそのような救いを行われるのか、その理由を明らかにしています。イスラエルがカナンの地に定着し、その山地に国を築くことが出来たのは、主がアブラハムに与えていた約束を覚え、その成就に向けて導きを与えて来られたからです。イスラエルは、その約束の下に、主の民として、主の公義と正義を行って歩み続けるなら、この約束の地で、主の祝福の内に生きることができるとの約束が与えられていたのです。しかし、イスラエルは、主をのみ愛し、主の民として相応しい礼拝を行うことをせず、異教の神を礼拝したり、異教の祭儀を取り入れていました。外国の侵略や支配に対しても主を信頼して歩むことを第一とせず、場当たり的なその場しのぎの同盟策で、その難局をしのごうとしたのが、ヨシヤ王以後の王たちの取った政策でした。特にゼデキヤ王の支配した時代は、それが顕著に表れました。道徳的な面でも、宗教的な腐敗から来る堕落ぶりは、主の目に、もはや赦すことを不可能にする程のレベルに達しました。バビロンを、そしてエドムを用いて、この国を滅ぼさせるままにすることに主は委ね、この不信仰を示すイスラエルを滅ぼされました。これがイスラエル滅亡の神学的な説明です。

しかし、主が望む以上に、エドムはイスラエルを略奪の対象にし、その山々を荒廃させました。イスラエルの敵となったエドムは、「ああ、永遠の丘が今や我々の所有となった」(2節)と言って、ほしいままに踏みにじっていましたが、彼らはその土地の真の所有者が主なるヤハウエであることを知り、認めることをしていませんでした。しかし、主は、イスラエルが、ご自身に対する正しい信仰を示さず、悔い改めに相応しい信仰をもって従おうとしないこの時代に、彼らに与えた土地の真の所有者として、その罪の審き手としてバビロンとエドムを用い、審きをされたのです。

だが、エドムは、イスラエルの山々が主の所有であることを忘れて、主から許されていた以上に、イスラエルの民を虐げ続けていたのです。弱くされたイスラエルには、エドム人を追放し、彼らを滅ぼす力がありませんでした。人間の目で見れば、イスラエルの将来は何の希望も見出せない絶望的な状態でありました。

この国の将来に希望が残るとすれば、それは、ただ一つ、彼らをわが民として育て導かれた主が、彼らに与えた約束の地に対する所有権を主張し、その回復をされる場合だけでした。

1-8節において、主は、イスラエルを荒廃させたエドムを、彼らがイスラエルにしたのと同じように荒廃させ、廃墟とされることを明らかにしておられます。エドムが、イスラエルをほしいままに支配し、はしゃぎ、嘲る行為は、「わたしの土地を取り、自分の所有とし、牧草地を略奪する者」(5節)として、主告発者となってその罪を告発し、彼らに報復する事を明らかにされます。「わたしは燃える熱情をもって」と語り、主はその権利を主張されます。エドムの支配下にあっても、そのように手放されたかに見える状況にあっても、この土地の所有権は主なるヤハウエの下にありました。「わたしは燃える熱情をもって」語ると主は、今度は「手を上げて誓う」(7節)と言って、主の民イスラエルを辱めた周囲の国々は、この世界と歴史を支配される主を侮り、嘲る者として、主の報復を受け、自分の恥を負うことになる、との審きが明らかにされています。

「しかし、お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために身を結ぶ。彼らが戻ってくるのは間近である。」(8節)との実に慰めに満ちた回復の約束が、イスラエルに向けて明らかにされています。

主は、創造者として自然を支配しておられます。そして、歴史の中で選ばれたイスラエルをわが民として、その彼らに与えた土地の不変の所有者であるご自身が、その破壊された自然を回復し、その土地の実りの祝福を約束されます。主のこの不変の意思こそが、主の民のゆるぎない希望です。

9―12節において、耕され、種蒔かれ、収穫の回復がなされ、失われた人口の回復が初めの時よりも栄える形で実現することが明らかにされています。
そして、そのような救いが実現する「その時、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」と主は言われます。

主は、ご自分に背き、勝手にふるまうイスラエルとその指導者たちに厳しい審きを与えられましたが、この民を「わが民イスラエル」(12節)として、いつまでも覚えておられたのです。イスラエルが住まう山々は、ここで「お前」と擬人化して呼びかけられていますが、これらの土地は、アブラハムにおいて約束され、イスラエルに与えられた「嗣業」の地であることが、改めて、ここで明らかにされています。

主はそのことを確認し、「二度と彼らの子たちを失わせることはしない」との強い決意約束を明らかにしておられます。

エゼキエルは、「人の子」として、主の約束の言葉を聞きました。都エルサレムとユダ(イスラエル)の山地の回復の約束は、その地に残された者だけでなく、捕囚の民にとっても実に喜ばしい福音の言葉でありました。主への信頼に生きなかったこの民と、この民に与えたその土地を、彼らの罪を裁くために、周辺の国々の支配に委ねた主が、その所有権を手放さず、その主権を主張し、回復へ導かれる。主が苦難に喘ぐ民のことを忘れずに覚え、救いへと導かれる。そして、「二度と彼らの子たちを失わせることはない、と約束される。この約束が、イスラエルの民に、この世界と歴史を支配しておられるのは主であるという信仰を呼び起こさせる働きをするのです。苦難からの解放は、この言葉に聞き、このように約束される主を信じて立ちあがる人々の間に確かにされるものとして語られています。

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