詩編講解

31.詩編第40篇『感謝と祈り』

この詩篇は、感謝と祈りからなっています。まず2-11節において、神の救いを感謝し、12-18節において現に迫りつつある苦難からの救いを祈り求めています。この詩篇の作者は、早急に自分を苦難から救い出してほしいという個人的な願望を退けることによって、目と心をひたすら神に集中し、神との結びつきの中でかたく保たれていた過去の経験に思いを巡らしています。そして、彼の信仰は、ここから神への信頼と服従へと深められていきました。しかし、彼には既に与えられている信仰と、この信仰の確証を求めようとする苦闘する心の思いがぶつかり合って、緊張状態にあります。その緊張がこの詩全体に貫かれています。

まずこの詩篇の作者は、2-4節において、神が自分の祈りに耳を傾けて聞きとどけてくださった体験を語っています。そして、その救いの体験だけでなく、自ら味わった救いに対する感謝の歌を歌った神への賛美も、神の賜物であるとみなしています。この詩篇の詩人のように、現にあるところの自分と、自分の所有している一切を、賜物として神から受けたという信仰の理解から自分を見つめていくとき、信仰の真の遜りへと導かれていきます。

この詩篇の詩人がこのような信仰の認識を与えられたのは、契約共同体の信仰の交わりの中で神の臨在にふれることによってです。礼拝の交わりにおいて神の臨在に触れ、神の力に圧倒的され、超人間的な大きさで神を感じさせられ、圧倒する神の恵みの行為を強く認識させられることによって、初めて、人は神に対する全面的な信頼へと導かれます。何らかの力の限界を持つような神に対して、私たちが全幅の信頼を寄せるということはありえません。神の比類なき偉大さは、神が私たちに賜る神の全ったき救いの意思と、その恵みによって啓示されます。人間はこの恵みを賜う神の偉大さに触れて初めて、卑小な自分の姿に気付かされます。会衆の賛美の歌による熱烈な感謝と雄弁な証しですら、神の現実の偉大さには及びません。

しかし、この恵みを給う神に対して、人間が何らかの形で価値ある感謝をあらわそうとするなら、どのような捧げ物も相応しくないと思わされます。
なぜなら、人間は捧げ物をするとき、自分の側から業績を並べ立てるなら、それは神の恵みや偉大さに対して相応しい態度とは言えません。契約の交わりの祭儀の中心に立つのは、人間ではなく、あくまで神とその啓示であります。

したがって、人間は、この神にひたすら傾聴し、服従することが出来るだけです。人間が神に相応しいものを帰することが出来るとすれば、それは、神の恵みを謙虚に受け入れて、それを証し、神の御心に服従し、身を屈めることだけです。

神への正しい感謝の姿勢は、捧げ物や供え物によらず、神の要求の下に全人格を上げて屈伏することです。そこに神の圧倒的な恵みの現実に応えるに相応しい唯一可能な姿勢が示されます。

人間は犠牲を捧げることによって神と同じ立場に立つことは出来ません。自分の努力や力によって神との関係を正常に保つことも出来ません。人間は、すべてを与え備えたもう神よりは常に下に留まる存在でしかありません。この事実に対応する相応しい姿勢とは、神に聞き、神に従うことであります。

8-11節において示されている作者の神に帰依するこの姿勢こそ、信仰者に相応しい態度です。そして、この恵みの神を礼拝し賛美し証しする生き方こそ、相応しい生き方となります。恵みの神と出会うことによって、隣人にこの神を証しする新しい責任が自覚されます。私たちは、隣人に神を証しすることによって、神との生きたつながりを保たれ、真に幸いなものとされるのであります。

このような神の救いを経験し、神の恵みに信頼し、委ねきり、神を証しする信仰がなければ、祈りは生まれてきません。真の祈りは、救いの喜びから生まれます。そして、神の恵みを背景におくことによって、この詩人は自分の罪の大きさを自覚するようになりました。

この詩篇の作者は、現在の苦難の最中で、もはやいかなる拠り所も持たず、神から隔てられて罪のうちに没落しそうになっています。それ故、詩人は、神の救いに対する感謝と、神の御心に従う生き方によって、神との交わりの確信と幸いを与えられた思い出を想起することによって、苦難の中から祈ることばを獲得していきました。

祈りとは、神の力の絶対さに圧倒され、その力で救い、恵みを賜る神に感謝する体験を持つ者が、神に委ねきり、神の救いを待ち望む姿勢で発する叫びであります。

それ故、祈りは、神に感謝する生活を知らない者にはできません。また祈りは、己に絶望し、神に心を開き、神に望みを置くものだけがなしうるものであります。また祈りは、神の恵みへの感謝の中から、自己の絶望的な罪を自覚し、その罪の故に味わう苦難を直視しつつ、神に望みを置いて、身を屈めて、私を救ってくださいと神に助けを求めることであります。そのようにして神の来臨を待ち望むことであります。

それゆえ、私たちの生の中心に神がいなければ、祈りは成立しません。神への感謝を知らない者からは、祈りは生まれません。なぜこの詩篇の詩人が感謝から祈りを始めたのか、それは、彼がこれらのことを信仰において深く洞察していたからにほかなりません。

テサロニケの信徒への手紙一において使徒パウロは、繰り返し「神に感謝しています。」以下にそれを列挙します。

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。(1:2)
このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。(2:13)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(5:16-18)

神の言葉、その福音の訪れを聞き、その恵みに満たされている喜び感謝する信仰の祈りを神は喜んでくださるのです。そして、神への感謝と喜びの祈りによって私たちの尽きない神から与えられる喜びの生を満たすものとなることを覚えましょう。

旧約聖書講解