エゼキエル書講解

9.エゼキエル書11章1-25節『真のイスラエル』

11章は、8章から続くエゼキエルが見た幻の最後のものです。11章は、真のイスラエル、「残りの者」は誰か、という大きな主題の下に記されています。それは、エルサレムに残る民なのか、それとも捕囚の民とされた離散の民から起こされるのか、という問題に答える形で、その預言と幻が示されています。

先ず、エゼキエルは、霊によって引きあげられ、エルサレムにある主の神殿の東に面する門にまで運ばれ(1節)、そこで預言するよう主に命じられています(4節)。門の入り口には、25人の男がいたといわれていますが、古代東方世界では、門は諸懸案を話し合い、処分を決める行政上の重要な場所でありました。アズルの子ヤアザンヤと、ベナヤの子ペラトヤは、「民の指導者」として要の位置にあって、それらの決定において重要な役割を果たしていました。しかし、この両人は、民に勧告する職務を持っていましたが、それを悪用し邪悪な計画を練る悪い助言者になりさがっていました。預言者たちは、権力の誤用とその悪影響について公然と非難していました(ミカ2:1、ナホム1:11、イザヤ32:7)。エゼキエルもまた、その任務を委ねられたものとして、ここで語っています。彼らがたくらんでいた「悪い計画」が、「家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ」という言葉で表わされていますが、エルサレムには、よりよい時代が直ぐに来るという楽観論が支配し、最初の捕囚民も早期に帰還できると楽観視し、エルサレム再建を考える人たちがいましたが、この二人はそのような考えを持っていません。その見通し自体は、エレミヤと近いように見えますが、「この都は鍋で、我々は肉だ」との考えは、明らかにエレミヤの理解と異なります。この言葉は、われわれは故国に属し、鍋(エルサレム)の中における選ばれた「肉」であり、他の者は価値のない屑のようなものとみなすものです。

この発言は、選びに対する偽りの理解に基づくもので、預言者によって虚偽として暴露されます。エルサレムには、今なお裁きと没落が待ち受けていました。そのことを明らかにするために、主は、「人の子よ、預言せよ」(4節)とエゼキエルに命じています。「主の霊がくだり」(5節)、エゼキエルは、その言葉と働きに真実さと力と権威が与えられました。「しかし、お前たちはこの都の中で殺される者を数多く出し、路上は殺された者で満たされる。」(6節)という預言は、エルサレムにおける急速に悪化する状況を反映しています。エルサレムは、王・支配民・民が政治的な抑圧・暴政・宗教的混交主義の窮地に落ち込んでいました。偶像崇拝の罪にとどまらず、政治的・社会的悪行が後を絶たない状態でした。それはシマヤの子ウリヤの殺害(エレミヤ26:20-23)に端的に現われていて、その異常な現実は、エゼキエル書22章6節以下にも報告されています。

それゆえ、よい鍋、よい肉とは、殺人者ではなく、その犠牲者たちであったのです。エルサレムはもはや「反逆の家」として滅びるしかなく、安全な逃げ場ではなく、錆びついた役に立たない鍋で、その錆は火によっても取り去り得ない、大混乱の様を呈していました(24:1-14)。捕囚以前には、都とその神殿は、主の臨在のゆえに不可侵である、という考えがエルサレムに蔓延していました。ヒゼキヤ王の時代に起こったエルサレムの驚くべき救助の出来事(列王下18:19)は、その不可侵性をいよいよ確信させるものとなりましたが、エレミヤはそれを偽りの平和として反論しました(エレミヤ7:10,14:13,23:16-17,27:16,28:2以下)。エゼキエルも偽りの安心を退けています(33:24)。

エゼキエルは、「お前たちは剣に撃たれて倒れる。わたしはイスラエルの国境でお前たちを裁く。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。この都が、お前たちにとって鍋となることはない。お前たちがその中で肉となることもない。わたしは、イスラエルの国境でお前たちを裁く。」(10,11節)という主の言葉を告げ、その裁きは、神の正しさの証明として行われることを明らかにします。その「国境」とは、列王記下25章6節以下、18節以下に記されるリブラです。それは、ゼデキヤ王が裁きを受けた場所でありました。ペラヤの死とエゼキエルの嘆きは、エルサレムが真の「イスラエルの残りの者」で、選ばれた「鍋」とその中の「肉」であるという幻想を打ち砕くものであったことを示しています。しかし、この事件は、イスラエルに対する希望はもはや完全に失われてしまったのか、という疑問を引き起こすものとなりました。そして、祖国の滅亡は、直ちにまた帰還と再建の希望の終わりを意味するのか、という疑問をも引き起こしました。もはや、「神は憐れみを忘れられたのであろうか」(詩編77:10)。

それに対する答えは、一部は災いの預言で、一部は救いの預言で、神の言葉として告げられます(14-21章)。

この預言が語られた時点では、エルサレムはまだ没落しておらず、人々は、捕囚にされた人々を欠いたままで、イスラエルを維持する計画を立てていました。エルサレムの住民は、捕囚民の帰還が間近に期待されていたその時期に、「主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。」(15節)といって、現実受容の姿勢を示し、自分たちこそ「イスラエルの残りの者」であるという考えに立っていました。

バビロン捕囚は、神に背く民に下された神の審きであるなら、捕囚にされた民は、祖国に残った民より罪深く、不信仰の民であるのか、という疑問が生じます。エルサレムに残った民の中には、そう理解するものが多くいたのでしょう。その傲慢な自己理解が、15節の言葉に現われているということもできるでしょう。しかし、離散の民が彼らより不信仰であったということはできないし、離散の中で不信仰になったということもできません。そして、神の現臨が神殿のあるエルサレムの方に、より多く現われるということもできません。その神殿も破壊されましたし、たとえ破壊されなくても、そうは言えません。イスラエルは、たとえ離散していても、神殿なしでも、信仰と祈りが必要であり、生活自体が礼拝でなければならないのです(ローマ12:1,2)。捕囚民は、新約聖書の信仰につながる聖なる実験をそこでしていました。そのゆえに、捕囚民は、エルサレムにおける神の栄光を失った神殿を超えるものを意味しています。捕囚民には、希望がありました。エゼキエルは、多くの災いの預言を語り、エレミヤと同じように、間近い祖国帰還の希望を捕囚民に語りませんでした。人々もまた、将来に対するエゼキエルの暗い預言を受け入れませんでした。

しかし、エゼキエルは捕囚民に、次のように主にある希望を語りました。

「確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。」それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。「わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。彼らは帰って来て、あらゆる憎むべきものと、あらゆる忌まわしいものをその地から取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(11:16-20、また36:24以下、37:21以下参照)

ここには、帰還と再建、新しい信仰共同体形成への希望が語られています。しかし、人は主の栄光を見出すためにその地に帰還するのではなく、残っている信仰によって都と国を聖めるために、それはなされます。それは、神による個別的な、内的な再生、心の一新によってなされる恵みの業として実現するものであることが語られています。強情な心(2:4,3:7)、姦淫の心(6:9)、石のように硬い心は、神の裁きの行為の悲痛な経験を経て、柔らかにされて、新しい心、肉の心に取って代わられる。それによって、人は従順な心となり、神の掟を心から喜び、それに仕えることを喜ぶ歩みに変えられる。それはまさに、神の新しい創造として起こります。それは、自己義認を赦さない、神の恵み、聖霊による心の一新として起こります。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」(36:25)業として、神ご自身の熱意において実現される恵みの御業です。

離散の民は、エルサレムにあるような立派な神殿を持たなくても、その簡素な聖所においても、礼拝に対して新しい視野を開かれます。神は、場所や、伝統の制約に縛られず、礼拝されることを欲されます。勿論、神は秩序を重んじられる方ですから、その礼拝は無秩序なものではなく、秩序を重んじなければなりませんが、シナゴグーのような貧しく小さな聖所であっても、神は、その礼拝に臨在を約束され、顧みられます(マタイ18:20)。

これらの幻を示されたエゼキエルは、主の霊によって再び引きあげられ、カルデアに運ばれ、捕囚民の下に連れ戻されました。霊の自由な働きによって、その霊が再びその地においても働く中で、エゼキエルが「主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた」(25節)という言葉で、この章は結ばれています。それは、まさにこの捕囚の民を、イスラエルの「残された者」とし、新しい霊の心を授けて、エゼキエルが、「主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせる」任務に就いたことを示す言葉です。

捕囚の民は、異国の地にあっても神の臨在を知り、霊の導きにより神を礼拝し、やがて残された民としてエルサレムに帰る日に、祖国の再興と崩れた礼拝を再建するために、この地で訓練を受け、その捕囚期間を過ごすという意味づけが、これらの出来事を通して与えられています。そのために彼らがなすべき第一のことは、「主が示されたすべてのことを」聞くことです。

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