イザヤ書講解

32.イザヤ書41章1-5節『歴史を導く主』

イザヤ書41章は、誰がまことの神かという問題が、法廷弁論の形式で論じられています。その議論は、誰が歴史を支配し世界を支配するまことの神なのか、その神性をめぐって論じられています。この使信の背景には、世界強国バビロンに捕囚とされたイスラエルが、その捕囚の地の日常生活において、支配者バビロンの否定し得ないため息の出る現実があります。彼らが日々経験しているのは、バビロンの祭儀が行われているという現実であり、その祭儀において神々への嘆願がなされ、犠牲と礼典と行列が行われるという現実です。イスラエルの民はまったく宗教的な自由を奪われていたわけではありません。しかし、世界強国バビロンにあって、それらの祭儀に何のかかわりも持たずに生きることはできません。その現実を前にして、この国を支配しているのは、バビロンの神々であり、その神の子とみなされる王であり、そしてその存在は、イスラエルを含め、彼らが支配したすべてのものたちの支配者として、同じように自らを示していました。だから、これらの祭儀が行われる中で、この世界を真に支配しているのは、主なる神(ヤハウエ)なのか、それともバビロンの神々なのかという問題から捕囚の民は避けて通ることができません。

しかし、第二イザヤは、これらの現実を前にして、イスラエルの神である、主なるヤハウエのみが唯一まことの神であることを明らかにします。ここで問われているのは、世界を支配するのは、バビロンの王なのか、それともその上にいる彼らの神々なのか、もしそうでなければ、ほかに彼らの神や王よりも強く確かな支配者、神が存在するのか、ということである限り、この世界の中であがめられている世界の神と諸国の王を法廷に呼び集めて、彼らを証人として、誰がまことの神なのかを明らかにする必要があります。

主なるヤハウエは、唯一の神、また世界の王としてこの法廷の裁判長の立場に立ち、「島々よ、わたしのもとに来て静まれ。」(1節)という言葉で、諸国民と国々に、出廷することを求め、そして同時に、沈黙するよう命じています。この場合、「島々」という言葉は、「諸国」を意味しています。つまり、この法廷に呼び出された神々は、諸国民と国々に代えられ、神々が持っていると思われているその神性の要求が無効であることを宣告することによって、非神化されています。

そして諸国民に出廷を求める主(ヤハウエ)は、「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き/国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。」(2節)という問いでもって、真の歴史の支配者、導き手が誰であるかを見るよう注意を喚起しています。この部分のヘブライ語の文章には、目的語がありません。ここで、「ふさわしい人」と訳されているヘブライ語は、ツェデクで、この語は通常「正義」と訳されますが、ここでは人格化されていると考えられますので、「正義をもたらす者」という意味に解することができます。新共同訳の「ふさわしい人」という訳語は、漠然としすぎて意味がわかりにくくなっています。またこの語は、「正しい者」と訳すこともでき、タルムード(原義は「学習・教え」.ユダヤ教聖典の一つ)ではその意味にとり、これを「東から」と結びつけて、8節で言及されるカルデヤのウルから来たアブラハムのことと理解していますが、現在では、この人物は、ペルシャ王キュロスであるというのが通説であります。彼はバビロンの東から来て、中近東全体を支配し、イスラエルの捕囚民に自由を与える救済者となります。彼は前550年、メディアを統合した後、アルメニア、アジア(現在のトルコ)に侵攻し、前546年にリディアを征服し、前539年にバビロンを破り、イスラエルの解放者となりますが、彼のことは、25節では、「北から」来るといわれています。ここではその名が挙げられず、暗示的にしか記されていません。それは第二イザヤの書き方のひとつの特徴であります。キュロスの名は、44章28節-45章7節ではじめて挙げられています。しかし、第二イザヤがここで考えている人物がキュロスであることを疑う余地はありません。それは、2節後半から3節にかけてキュロスの出現が間違いなく述べられているからであります。

2節から3節にかけて主語が微妙に変化しています。この点を見逃さないことが大切です。彼(主)は、諸国民を彼(キュロス)に与え、彼(キュロス)は追う。歴史の現実においては、神の働きと人間の働きが互いに入り混じるようにして進展していきます。歴史の事実を人間の問題としてだけ見れば、そこに残るのは、バビロンに変わる強国ペルシャの出現であり、その指導者キュロスの迅速な行動とすばやい支配地域の拡大であります。その新しい支配の下に単にイスラエルが解放されたという事実しか残りません。

しかし、第二イザヤは、この新しい世界の支配者となるペルシャ王の台頭に、イスラエルの神の働きを見ています。それは現実にペルシャのキュロスが自らの成功をどう見ているかということと同じではありません。彼自身は、それをマルドゥクによる祝福の結果であると見ていたとしても、第二イザヤにとってはそうでありません。第二イザヤにとって、キュロスの出現は、どこまでも神の歴史支配の現実として理解されていました。その理解を支える信仰は、4節の主の啓示に基づきます。この言葉は、次の詩編90篇1節の言葉を思い起こさせるものでもあります。そして、この信仰は、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」「アルファでありオメガである方」(ヨハネ黙示録1:4,4:8,11:17,16:5,21:6)として理解し告白する、新約聖書ヨハネ黙示録にいたるまで貫かれる聖書の信仰として表されています。この神の変わらない永遠性こそ、死の運命に直面している者に、無条件な信仰の根拠づけを与えるものであります。そして、世界全体に対する神の働きを可能にする根拠を示しています。神の働きこそがすべての歴史的働きに先行しており、すべてを決定するものであるゆえに、神は「はじめから代々(よよ)の人を呼び出すもの」なのであります。神は永遠に変わらざる方として、生起するものすべてに対して向かいあっておられるのであります。

そのような方として神はまた自らを、「初めであり、後の代(よ)と共にいるもの。」(4節)として示されています。この神は、天地創造において初めとなられた方であります。そして、出エジプトに際し、そのような方として「共にいる神」としてモーセに自らを啓示されました。そのことが10節においてもう一度想起されていますし、4節においても明らかにされています。神は単に共におられるというのでなく、歴史のどの瞬間においても、どのような不可能に思える現実の中にも、またそこには人の支配と計算しかないと思えるような現実の只中にあっても、「共にいるもの」として、その支配を示され、歴史を転換させることのできる方として、わたしたちに絶えず示されているのであります。

だから主は、ペルシャの王キュロスさえも、しもべとして、ご自身の活動へ委託することができる、という事実に目を向けるよう、預言者を促し、民を促すのであります。
主なる神ヤハウエの歴史支配の現実を知るものは、「畏れ」と「おののき」をもって、主こそが神であると近づくようになります。なぜなら、それ以外の神々は、もはや神ではありえないからであります。自分たちの希望もまた、主なるヤハウエ以外にありえないことを知るものにされるよう促しを受けているからであります。だから、5節において次のように告げられています。

島々は畏れをもって仰ぎ
地の果てはおののき、共に近づいてくる。

クリスマスのときに東方からやってくる博士たちのように(マタイによる福音書2章)、まことの神、主を礼拝し、この方こそ神であると告白し、この名によって救われるために、「共に近づいてくる」ようになることを告げて、この法廷弁論はひとつの喜ばしい結論を明らかにしています。

現代世界は、よい意味でも、悪い意味でも、グローバル化され、世界は一つにされつつあります。インターネットの普及は、地球の裏側にある出来事を、瞬時にして伝えることを可能にしました。だからこそ共に生きることの大切さが叫ばれるようになりました。しかし、現実は、富むものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなるものとして、グローバル化が利用されている現実を前にして、座視することはできません。世界の真のグローバル化は、歴史の導き手であり、「初めであり、後の代と共にいる」(4節)主のもとに、地の果てから「共に近づいて来る」(5節)時に実現するものであることを、心新たに深く思わされるのであります。この御言葉は、貧しくされた民イスラエルに向けてのみ語られているのではなく、世界の諸国の民が主の法廷に引き出されて語られた法廷弁論として語られているだけに、この結論の意味は、永遠に変わらざる言葉として重い意味を持っています。そして、そのことを深く覚えることが何よりも必要であり、大切であります。

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