士師記講解

2.士師記2:6-3:6『背信とさばき』

士師記2章6節-3章6節は、ヨシュア記24章28-31節とほぼ同じことを繰り返し告げ、ヨシュアの死を語り、ヨシュアのもとで仕えた長老たちも死んだ後の全くカナン征服の戦いを知らない新しい世代のことを書いています。この世代の人たちは特別な神の救いの体験を持たない世代です。この世代の信仰は、父祖たちに現された神の恵みを聞き、その中に留まるように教えられましたが、その実感の乏しいものであったことを神学的な問題として編修者は見ています。

その現実を、「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった」(2:10-14)、と神学的側面に光を当てて記し、士師時代全般を神学的に評価しています。

「ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた」(2:7)世代がいなくなると、荒野での遊牧的な生活を知らない世代は、カナンでの農業生活を本気で習得しようとしました。しかし、カナンの農業はカナンの宗教と深く係わっていました。カナンは、豊穰の神バアル、アシュトレトを礼拝する先住の民がいた地です。この世代は、生まれたときからカナンで育った世代です。だから、彼らにはカナンの生活に違和感がないのです。彼らが、十分宗教教育されていなかったなら、カナンの文化のみならず、カナンの宗教さえも違和感なく取り入れることを、平気でしたことでしょう。事実、彼らはそうしたのです。宗教教育をされていてもカナン宗教をそれほど危険だとは見做さず、その神々に仕える罪を犯してしまう者が多数現れました。

その原因となった一番大きな問題は、結婚問題であったことが3章5、6節において、「イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた」、とハッキリと述べられています。

ヨシュアと長老たちがいなくなって、イスラエルには暫く特別な指導者がいなくなっていました。その間、民はどうしていたかというとめいめい勝手なことをし、主の前に罪を犯すようなことばかり行っていたわけです。では、主はどうされていたかというと、諸国民によって「イスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るため」(2:22)、彼らの歩むままに放置されたのです。もう主の手がイスラエルに及ばないと言うのではなく、摂理的にご支配なさっているのです。主の手は敵の手を通して現されるのです。敵を通してイスラエルの罪を裁く、これが主の摂理的な支配の方法でありました。

主の民としての信仰を曖昧にして、カナンの民の中に同化するような生き方をしていた彼らが、カナンで苦しい目に会ったとき、初めて本当に主の御名を呼び求めだしました。主はこの身勝手な民を、それでも見捨てず、士師を起こして助けを与えられるのです。主は士師とともにおられましたので、その士師が生きている間は、敵の手から救われましたが、士師がいなくなると、また逆戻りして元の罪の生活に戻ってしまうということを何度も繰り返しました。

士師記を読むと人間というのは本当に身勝手で、罪深いなぁと思わされます。性懲りもなく同じ罪を何度も犯し続けるものであるということがよくわかります。そして、主はその度に、敵を通してイスラエルを裁くのですが、それはイスラエルを滅ぼすためではなく、イスラエルを悔い改めさせるためです。審き自体が恵みなのです。イスラエルは痛い目に遇って始めて主の恵みを思い起こすことが出来ました。わたしたちも同じだと思います。順調にいって、一杯恵みを頂いているあいだは、それがどんなに素晴らしいことか忘れてしまう主に対する忘恩の罪を犯しやすいのです。恵みの中にいるときは、あるのが当たり前のように思えて、主に対する感謝を忘れて、世の魅力にどんどん負けていって、偶像の虜になってしまいやすいのです。

神が全能であれば、なぜイスラエルをカナンに導いたときに、カナンの偶像宗教を徹底的に滅ぼされなかったのか、という疑問が起こります。主が導き主が先立って戦われ、また苦悩の中から主が助け出されるのなら、一遍にカナンの偶像を主が滅ぼしてしまわればよいのにと思います。

「しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々に離れ、同じように歩もうとはしなかった」(2:17)、とイスラエルの罪の現実を明らかにし、偶像崇拝は姦淫であることが明らかにされています。ということは、ここでは、イスラエルと神の関係が、結婚関係にある夫婦の関係として考えられています。結婚関係は信頼の絆でしっかりと結びあわされる必要があります。その信頼は愛です。その信頼と愛を破る最も恐るべき罪は姦淫なのです。愛は自由です。強制されては駄目になるのです。だから、主はイスラエルを本当に主との愛の交わりの中で生きる者とするために、自由にされたのです。そのために、カナンの宗教も滅ぼされなかったのです。

その神の愛の絆を、ホセアは、ホセア書11章1-9節において、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。・・・(5-7節略)ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。・・・わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」、と述べています。

主がカナンの人々をイスラエルの間に残されたのは、第一に、イスラエルの宗教上のそむきの罪を罰するためです。第二に、イスラエルの主に対する忠実さを試みるためです。第三に、イスラエルを主なるヤハウエへの真の信仰に生きるために戦うことを経験させるためです。

信仰というのは、こうした現実の戦いの中でリアルに神を捉え、神に生かされる営みです。神は多くの苦難をイスラエルに経験させます。そして、イスラエルは何度も主の信頼を裏切ることをします。しかし、主はイスラエルを完全に見捨てず、士師を通してイスラエルを憐れまれるのです。この主の愛に励まされて、イスラエルがご自分のもとに立ち帰ることを主は期待されているのです。神は罪を犯し続けているもの審かれます。しかし、その度に何度も何度も愛を示し、悔い改めを求めて、忍耐して待っていてくださるのです。姦淫の女を赦された主イエス・キリストのように、愛をもってわたしたちを包み込んでくださっているのです。

旧約聖書講解