列王記講解

7.列王記上10:1-11:43『ソロモンの栄光と挫折』

列王記上10章と11章は、ソロモンの治世の光と影の部分を描いています。

光の部分は10章に、ソロモンの知恵と王国の繁栄として描かれています。ソロモンの名声は、その貿易の広がりとともに、周辺世界に知られることになりました。シェバの女王がソロモンの名声を聞き、「難問を持って彼(の知恵)を試そうとしてやって来た」ことが記されるこの物語は、シェバの女王がソロモンの知恵とその宮殿の素晴らしさに圧倒されて、ソロモンを称賛したという非常に印象深い書き方がなされていますが、来訪の真の目的は、貿易問題にあったようです。

この物語は、9章26節以下の紅海貿易の続きとして記されています。物語は、ソロモンの紅海貿易が引き起こした一つのエピソードとして語られています。ユダヤ人の歴史家ヨセフス(後37/38年生、没年不明)は、「シェバの女王」をエジプトとエチオピアの王女としていますが、シェバはアラビア半島の南西端、現在のイエーメンの山岳地帯にあったと考えられています。シェバの女王は「極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。」(2節)と記されていますが、ソロモンの知恵を知るだけならそこまでする必要はなかったでしょう。「香料」はシェバの特産品で、多くの国に輸出していました。シェバがインド洋と紅海と出会うアラビアの南西に位置していたこともあいまって、大きな貿易の中心地となっていました。エツヨン・ゲベルにあるソロモンの船団は紅海での貿易を拡大し、シェバとも接触していたに違いありません。両者の間では紅海貿易における競争・利害の対立が生じたのでしょう。シェバの女王が、「極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た」のは、そうした利害対立を調整するための、通商及び外交交渉のためのものであったと思われます。「彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせた」(2節)と言われていますが、彼女は単にソロモンに知恵を求めたのではなく、その多くの質問は外交・貿易に関するものであったと思われます。ソロモンは、かつてティルスの王ヒラムの知恵に翻弄されましたが、ここではシェバの女王に対してその知恵によって、またその王宮の素晴らしさによって、その心を魅了したことが述べられています。

「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。」(6-7節)というシェバの女王のソロモンの知恵に対する驚嘆には、少し誇張があると言う批評家の意見もありますが、この物語は、ソロモンの政治家としての知恵と才覚を物語る一つの特筆すべき出来事として覚えられていたのでしょう。ソロモン王朝とシェバの関係は、これをきっかけに良好な関係が築かれたものと思われます。それを表すのが、互いになされた贈り物です。

14節以下に、ソロモンが得た富が列挙されていますが、「歳入は金六百六十六キカル」と言われていますが、その金の量は年20トンを超え、途方もなく大きなものです。「レバノンの森の家」とはまさにソロモンの王宮のことで、王は金で覆われた「象牙の大きな王座」に座り、王の杯も器も全て純金でできていたと言われます。また王は、ヒラムノ船団のほかタルシュシュの船団も所有し、「金、銀、象牙、猿、ヒヒ」など、あらゆる物を貿易によって、所有していました。タルシュシュは、ヨナが主から逃れようとして向かったところですが(ヨナ書1章3節)、それは現在のスペインにある港町のことで、そこに行くためにはジブラルタル海峡を過ぎて大西洋側まで出なければなりません。そこまで行く船はよほど整備されていないといけませんでした。ソロモンがそのような船団を所有できたことは、その富が如何に大きかったことかを物語っています。また、馬と戦車の所有は、ソロモンの支配の特徴を示しています。これらは、現代におけるミサイルや原爆などに匹敵する、当時としては最新の兵器で、ソロモンが決して二流の小国の支配者ではなく、エジプトのファラオのような他の帝国と対等の資格を持つ王であることを示しています。しかし実際は、ソロモンはこれら最新の兵器をほとんど活用することはありませんでした。そこにソロモンの驕りと名誉心が現れを見ることができます。

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。(詩篇20:8)

この信仰を見失ったソロモンの治世は、光から影へ転換する前兆でもありました。サムエルは「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、 千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。」と警告した王の道をソロモンは歩み、民に大きな苦役を課す王の生活の裏に苦しむ民の生活が垣間見えます。

しかし、ソロモンの治世の影を、列王記の記者は何よりも信仰の問題であったことを11章に記しています。ソロモン王の栄華は、外国の王女を政略結婚により迎え入れて実現しました。しかし、主の選びの民イスラエルを支配する王として、これらの方法による繁栄は、主への背信を意味するものであったことを明らかにしています。

11章1-3節には、ソロモン王が「多くの外国人の女を愛した」ことが、「心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」結果となったことが明らかにされています。それは、出エジプト記34章11-16節、申命記7章1-4節において警告されていました。ダビデもハレムを持っていましたが、ソロモンのハレムは、「七百人の王妃と三百人の側室がいた」と言われ、比べものにならないくらい大きなものでありました。外国と政治的盟約を目的として妻を向かえることは、その信実の証として妻たちの宗教的習慣を認めることが求められます。ソロモンはこれらの問題を無防備に認めたことが、自らの信仰の立場を揺るがすことになりました。

列王記の著者は、ソロモンが老境に入り肉体的にも判断の上でも弱くなって、その罪に陥ったように、その非難を弱めるような書き方をしていますが、どのようにその批判を弱めてみても、その結婚関係に根本的な原因があることには変わりありません。「彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。」(4節)という批判は、ダビデは多くの外国の女を迎えても、主への信仰において分裂がなかったことを示しています。それに対してソロモンの時代に、多くの外国の偶像の「憎むべき神」に従い、「主の目に悪とされることを行う」ようになったと言われています。

このように主から離れたソロモンの対し、主は怒りを示し、二度彼に現れて、他の神々に従ってはならないと戒めたが、「ソロモンは主の戒めを守らなかった」ので、主は、「わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ」るといわれています。しかし、父ダビデのゆえに、ソロモンが生きている間はそのようなことは起こらないし、王国の全部が裂いて取り上げられることがない、という主の憐れみも語られています。

信仰の分裂による二元化した繁栄は、一時的に続くことがあっても、主はそれにふさわしいように王国の分裂、あるいは滅亡という方法で答えられます。主への信頼でなく、最も忌み嫌われる外国の偶像の神への信仰は、まさに人間の願望と王国の繁栄を自己自身の力で実現する道の選択に他ならず、主はこの人間の野望、二心の信仰を打ち砕かれます。

主はその誤りを摂理的支配の中で外からと内側から打ち砕かれます。外国の神により頼むものを裁く「神の手」として最初に選ばれたのは、敵対する外国の力です。エドムのハダドがソロモンに敵対するものとして起こされました。モアブはユダの南にあり、エドムによってユダは紅海にいたる命脈を断たれることになります。ソロモンはエドムを支配しなければ、アラバの採掘活動も、エツヨン・ゲベルとの通商も不可能となります。かつてダビデは、エドムで一万八千人を打ち殺し、守備隊を置いて支配したと言われています(サム下8:13-14)。ハダドはこのとき少年でありましたが、エジプトに逃れ、「ハダドは、ファラオに大変気に入られ、ファラオの妻、王妃タフペネスの妹を妻として与えられた」と言われています。これはソロモンがファラオの娘を妻として迎え入れるよりも先のことです。ハダドは、ダビデとヨアブの死を聞くと、次のエジプト王の態度が変化して、王女をソロモンに嫁がせる前に、エジプトを去り、エドムに帰り祖国の復興を志したものと思われます。ソロモンの父ダビデに国を滅ぼされ、ソロモンの先駆的道を歩んだエドムのハダドがその敵対者として選ばれるところに主の皮肉を見る思いがします。

次に、神は、ソロモンに敵対するものとして、エルヤダの子レゾンを起こし、彼はダマスコを占領します。これもソロモンの衰退を示す例となります。

このようにソロモンの王国は、その軍事力の強化にもかかわらず、外から衰退して行きました。しかしもっと激しい神の裁きは内側からなされます。その裁きの手として選ばれたのは、ネバトの子ヤロブアムです。ヤロブアムはツェレダの出身であると言われます。聖所があったシロの真西20キロほど行った所に、ツェレダの泉と呼ばれる場所があります。ツェレダがその地域にあるなら、シロの預言者アヒヤとヤロブアムの関係は同部族、同地域という強いつながりがあったのかもしれません。ヤロブアムはソロモンが認めるほど有能な人物でありました。しかしその母ツェルヤは、寡婦であったと言われています。その生活上の労苦は相当なものであったと思われます。ヤロブアムは、ソロモンがミロを築き、ダビデの町の破れをふさいでいた時にその能力を発揮し、ソロモンに認められ、監督に任命されたと言われています。ミロというのは「土を盛り上げた」という意味があります。それはエルサレムの砦を指して言われています。ヤロブアムはこのミロを築く「労役」に動員された若者でありました。能力を認められ監督にされましたが、その「労役」がカナンの先住民だけでなく、北イスラエルの貧しい人々にも課せられたものと思われます。その労苦を体験してヤロブアムは育ちました。その労苦を知るヤロブアムという人物は、民の労苦に共感できる人間です。ソロモンの死後のヤロブアムの反逆が成功するのは、そこに主の御心が働いていたことを第一にあげねばなりませんが、その苦労を共感してくれるヤロブアムを民衆が支持したことも忘れてならない重要な要素です。そのヤロブアムがエルサレムを出てくるのを待ち伏せするようにシロの預言者アヒヤが現れ、着ていた外套を十二に引き裂き、その内十切れをヤロブアムに取るように述べ、王国分裂についての主の御旨を告げます。その内容は、ソロモンに告げられたのと同じものでありました。しかしアヒヤは、「だが、わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする。」という勧告を与えていました。

アヒヤの預言は、ヤロブアムにのみ告げられ決して他の人に知れないようにされていましたが、ソロモンの耳に入ることになりました。それ故ソロモンは、自分に敵対することになるこの人物を自分の手で殺そうと計画しますが、ヤロブアムはエジプトに逃れ、ソロモンが死ぬまで、エジプト王シシャクの下にとどまります。神の時が現れるまでヤロブアムはそこにとどめられます。

列王記を記した申命記的歴史家は、ソロモンの治世の初期があらゆる点で偉大であったにもかかわらず、なぜ不幸に終わったのか、その理由を発見しました。それはソロモンが大きな罪を犯したからです。全てのイスラエル人が陥った最も由々しき罪は背信です。主なるヤハウエを捨て、他の神々を礼拝することです。ソロモンはエルサレムに主の神殿を築く偉大な業に献身しましたが、彼の犯した大きな罪は、神殿建設と言う業を持って免責されるものではない、と考えたのです。ソロモンが生きている間その裁きがなされなかったのは、ダビデの故です。以後、イスラエルの王とその国の歴史はこの尺度で測られていくことになります。それは同時に、わたしたちの信仰を計る物差しでもあります。

旧約聖書講解