詩編講解

25.詩篇第33篇『神賛美の歌』

この詩篇は、新年に行われる契約祭のために作られた歌であると考えられます。イスラエルは、祭儀共同体として新年祭のときに契約更新の祭りを祝い、その祭りにおいて主なる神の臨在と神の選びと恵みを確認しました。この詩篇は、そのような新年祭のときに神への感謝と賛美を表すために歌われた賛美の歌です。

1-5節までが導入部で賛美への促しとその理由づけの言葉が述べられ、6節以下に本来の賛美が続きます。6-9節は、創造における神の言葉の力に対する賛美がなされ、10-12節では、歴史における神のはかりごとに対する賛美がなされ、13-19節において神の全知と見守りに対する賛美がなされ、最後に救い主で守り手である神に会衆一同の信仰告白がなされ、未来に対し神の恵みを祈り求める言葉が続きます。

1-3節では、喜びの歌を歌い、琴の音に合わせて主に感謝し誉め歌を歌えという呼びかけが三度もなされています。私たちはこれによって祭儀礼拝の状況を知ることができます。祭儀に参加を許される契約共同体の一員には、「主に従う者」「正しい人」という称号で呼びかけられています。そして、「主を賛美することは正しい人にふさわしい」と共同体の信仰のあり方が示されています。

4、5節において、四つの信仰箇条が強調されています。ここには旧約聖書の信仰を支える基盤が明らかにされています。しかし、教条的な命題では決してなく、実際生活における経験として述べられています。その真価は、幾世代にもわたって常に新たに認識され、再確認されてきたものであります。それゆえ、私たちは生きた信仰の証しとしてこれを評価することができますし、しなければなりません。

「主の御言葉は正しく 御業はすべて真実」と告白しますが、この告白の言葉には、信仰は神の言葉の真理と神の行為の真実のうちにその基盤があることを明らかにしています。イスラエル周辺の異教の世界と国々にはたくさんの神々が存在しましたが、異教徒たちは常にその鼻息を伺っていなければなりませんでした。異教の神々は実に気まぐれで、人々はそれに振り回されていました。

しかし、真の神はそのような方でありません。主は必ず約束を守られます。主の行為は予測しがたい気まぐれな思いつきで引き起こされるのではなく、常に一貫した秩序をもって確実に成就されていきます。それ故、人は何をする場合にも、主なる神に無条件で委ねきることができます。そして、まさしくこの点にこそ、神の真実は存するのであります。

主は義と公平に満ちた方です。そして、主の義と公平が人間の義務を規定し、神と人との交わり、人相互の交わりを可能ならしめる基盤を提供する働きをしているのであります。しかし、義と公平が主なる神に関する最後の言葉であったのではありません。もしそれが神に関する最後の言葉であったなら、人は神の義と公平の前に自らの破れを知り、ただ罪に破れた者として神の裁きの下に倒れ伏すしかありません。しかし、主は「恵み」と「慈しみ」をもって、人間のことを心に掛けておられます。救いに値しない神に背いて生きる罪深い人間にも、神は「恵み」と「慈しみ」をもって心にかけておられます。これこそ信仰にとって奇跡にほかならず、信仰者は常に新たにここから生きる力を汲み直すことができるのです。「地は主の慈しみに満ちている」のです。

6-9節は、創造における神の言の力を賛美しています。
神のことばによって世界は創造されたと聖書が語るとき、人はその現実の前に神の真実を無条件に真摯に受け止め、主を畏れるべきことを教えています。神のことばの真実は、私たちが理解すべきすべてのことを含んでいるだけでなく、この世界のすべての現実と事象を造り出す、生きた力であるという意味が含まれています。預言者たちも自分が神の審きと救いのことばを告げるために遣わされたことを自覚したとき、神のことばをそのように真剣な深い意味を持つものとして理解しました。

イザヤは神の創造と救いは等しく、神の救いは、創造における神のことばの真実と力を想起するとき、神の再創造としての意味を持つことが明らかになる、ということを示しました。預言者の信仰と説教の迫力は、神のことばが現実に働き掛けることのできる力強いことばであるということから来ています。それ故、聖書において神のことばのもとに立つという表現は、神のすべての現実の下におかれるということを意味しています。この詩篇は、創造の神をそのような観点から見つめ、賛美しているのであります。

10-12節において、この詩篇の作者は、歴史の考察へと向かいます。
信仰者は、歴史の出来事の背後に、永遠の計画に基づいて歴史を形成する神の見えざる手を見て取ります。聖書において、歴史を理解することは、歴史を神の側から理解することを意味しています。世界を支配する諸国がいかに懸命に計画を練り、その支配を続けようとも、そのはかりごとが神のはかりごとに反するかぎり水泡に帰すほかありません。神の選びと救いは、この歴史の中で、歴史を神の救いの歴史として意味付けているのであります。

それ故、13-19節において、作者はこのように創造と歴史のつながりにおいて、神の守りを語るとともに、人間が神に対して負っている責任と、信頼のおける揺るぎない土台としての神について語られています。

神を自然と歴史の主として崇める信仰は、神の眼が人の心にまで注がれ探っている事実を洞察します(13-15節)。これによって、作者は人の心を造りたもうた方に対して、人の心は何一つ隠されておらず、また隠すことができない、人の心の奥底に秘められているもっとも小さな密かな思いすら露にされていることを告げています。人の行いはことごとく全知の神の眼差しの下でなされます。その責任が神の前で問われ、究極において裁かれます。誰もこの神の眼から逃れることができず、その裁きを免れることができません。

しかし、神の眼が自分に注がれているという自覚は、畏れの動機である一方、信頼の動機ともなりうるのです。人に命令を発する神は、ご自分を畏れ信頼する者に対し、同時に恵みの神として臨みたもうのです。神を信頼しない者は、兵力を頼り、力に頼ろうとします。しかし、その力で死から人を救うことはできません。しかし神は、人を死から救うことさえできます。なぜなら、人の命は神の御手のうちに収められており、人間的にいかなる救いの可能性の無いような絶体絶命の場合にも、神は命を守ることができ、守ってくださるのです。この詩篇の作者は、畏るべき唯一の方、より頼むことのできる唯一の方が誰であるかを信仰によって知っており、神の恵み深い眼差しが自分のうえに注がれていることを感じとっています。それゆえ彼はまた、自分が神の慈しみに守られていることを自覚し、神により頼むことによって大胆に未来を展望して、迷うことなく未来の危険を直視することができます。これこそ正しい信頼の姿です。人間が自分のうちから得ることのできる力よりも大きな力が、この信頼の中から育まれることを私たちは覚えることができるのであります。

そして、20-22節のこの歌の最後のところで、信頼の動機が会衆の信仰告白及び祈願として述べられています。

ここでは眼差しが過去と現在から未来に転じられています。神はその聖なる御名、その崇高な本性、意思と救いを、会衆の面前で再び告知なさいます。神を信ずる者たちの喜びと信頼と希望は、主なる神のうえにおかれています。旧約聖書の信仰において、この希望は経験の中から形成されていくものであると理解されています。神の経綸が見えないところでは、希望も存在しません。過去や神の創造及び歴史から希望の力を汲み取ることができるという点にこそ、旧約聖書の信仰の強靱さがあります。これまで常に「助けと楯」となってくださった神以外の何ものも、来るべきすべての出来事に対する保証を与えてはくれない、これが旧約聖書の信仰であります。

身を前方に差し延ばしてひたすら神を待ち望んでいる人々に、神の恵みが与えられるようにとの祈願でこの歌は閉じられているのであります。そして、その信仰に立つよう私たちに促し励ましているのであります。

旧約聖書講解