イザヤ書講解

48.イザヤ書47章1-15節『バビロンの滅亡』

47章は、バビロンの滅亡を語っています。イスラエルにとって、バビロン捕囚という出来事は、主の民としてその御声に聞かないで歩み、預言者の悔い改めの勧告にも耳を傾けることなく歩み続けた結果下された主の怒りによる審判でありました。それ故、バビロンは、主の審判を行うために、主によって選ばれた手でありました。そのことは6節前半で次のように述べられています。

わたしは自分の民に対して怒り
わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。(6節)

しかし、バビロンの手に渡したイスラエルのことを、主はなお「自分の民」と呼び、「わたしの嗣業の民」と呼んでいます。主は、イスラエルをこのように呼んで、審きの下においても変わらず愛しておられたことが明らかにされています。それは、46章3-4節の次の言葉とあわせて読む時、イスラエルに向けられる主の不変の愛はいっそう明瞭になります。

あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。

だから捕囚の体験は、イスラエルを悔い改めさせ、その信仰を純化させ、より大きな救いへと導くための手段であったのであり、イスラエルを苦しめ、虐げることに目的があったのではないことが明らかになります。バビロンは、罪深いイスラエルを裁くという主の目的を果たすために、彼らの国を滅ぼし、捕囚とすることまでは許されていました。バビロンには、イスラエルに対してそれ以上のことをして、苦しめたり、虐げたりすることを、許されていなかったのです。しかし、6節後半において、彼らは主のそのような意思を越えて、イスラエルを虐げた事実が次のように述べられています。

お前は彼らに憐れみをかけず
老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。

バビロンが主によって裁かれねばならない理由の一つが、捕囚の民を無慈悲に取り扱ったことにあることが、ここにはっきりと述べられています。特に、「老人にも軛を負わせる」過酷な扱いをしたことがその理由として挙げられています。哀歌1章19節には、次のような言葉が記されています。

わたしは愛した人々に呼びかけたが
皆、わたしを裏切った。
わたしの祭司ら長老らは、都で息絶える
命をつなごうと、食べ物を乞いながら。

バビロンは、おそらくこのように老人を苦しめたかどうかわかりませんが、いずれにせよ、そこには、「白髪になるまで背負っていこう」といわれる主の愛に反する苦しみを与えたバビロンに対する、主ご自身の怒りが6節の言葉において表明されていることだけは確かです。

バビロンを滅亡させる第二の理由は、7,8,10節において述べられているような、バビロンの不遜な自信にありました。「わたしは永遠の女王だ」(7節)とおごり高ぶり、安逸と快楽を欲しいままに求め、やもめになったり、子を失う悲しみをしない国は「わたしだけ、わたしのほかにはだれもいない」(8節)と豪語する女(バビロン)に向かって、主は、「身を低くして塵の中に座れ」「王座を離れ」(1節)、「沈黙して座り、闇の中に入れ」(5節)という命令をもって、バビロンに下される災いを語っておられます。

バビロンは、イスラエルを征服し、捕囚とし、彼らを辱めたように、辱めを受けることが、2,3節において次のように明らかにされています。

石臼を取って粉をひけ。
ベールを脱ぎ、衣の裾をたくし上げ
すねをあらわにして川を渡れ。
お前は裸にされ、恥はあらわになる。
わたしは報復し、ひとりも容赦しない。

豪奢な宮殿で、洗練された文化を享受し、優美な衣服を着飾っていた女性は、そのベールを剥ぎ取られ、衣服を剥ぎ取られ、奴隷女のようにすそをたくし上げて働かせられるという、この光景は、バビロニア帝国の没落ぶりをほうふつさせるに十分です。

現実にバビロンを滅ぼし、その辱めを彼らに与えるのは、ペルシャ王キュロスですが、第二イザヤは、それが主の意思として行われることを明らかにするために、主の御名を次のように指し示しています。

わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主
イスラエルの聖なる神。(4節)

ここで「万軍の主」という御名は、バビロンの星々が意味するもの(13節)に目を向けて用いられています。バビロンでは、呪文を唱えて、星々に占いを行い、その運命を聞くことが日常的に行われていました。そのように自らの運命についての助言を求めますが、すべては徒労に終わることがきっぱりと述べられています(9節)。

彼らが助言を求める星々は、それ自体、ヤハウエの被造物に過ぎません。40章26節にその事実が次のように明らかにされていました。

目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。
それらを数えて、引き出された方
それぞれの名を呼ばれる方の
力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

このように、星々は、ヤハウエの被造物として、ヤハウエの命令に聞き従わねばならない、それ自体物言わぬ無力な存在でしかありません。バビロンの王は、占星術によって国の将来の知識を得ようと努めますが、そこで与えられる知識は、元来、人の運命を変える力を持つものでありえません。それは、星々の運行を見て、人間の都合のよいように考案した人間の解釈に過ぎません。だから、「お前の知恵と知識がお前を誤らせ」(10節)、「助言が多すぎて、お前は弱ってしまった」(13節)と述べられています。星々は救うことはできないし(13節)、木で作られた無力な偶像は、主の火で焼き尽くされ、自分の命さえ救い出すことはできない(14節)、呪文を唱える呪術師もその知識の無力さをさらけ出すだけで、彼らもまたさまようものでしかない。だからそれらにより頼んでも、それらは救う力はありません。第二イザヤは、すでに46章1,2節において、バビロンの偶像の無力さを明らかにしています。

バビロンは、その帝国の支配を拡張する中で、多くの国を滅ぼし、弱い老人や、女性、子供の命を蹂躙してきました。戦争によって拡大していく帝国は、常にそのようにして被征服民を圧迫し、蹂躙してきました。その中で勝利に酔いしれ、快楽をむさぼってきた女性たちには、自らの国によって殺された幼い命や、同性である女性たちの辱められる姿を考えたことも、また自分の夫が戦場で死ぬなどということも考えたこともないでしょう。

わたしはやもめになることなく
子を失うこともない(8節)

このような悲しみを自分は味わうことはないと考えて安逸をむさもっていた女(バビロン)は、しかし、その二つの苦しみを一瞬にして味わうようになると9節において述べられています。妻として、母親として、戦場で夫が銃弾に倒れたり、夫に捨てられたり、自分のお腹を痛めて産んだ子が、目の前で殺される光景を見るほど悲しいことはありません。しかし、女(バビロン)は、この二重の苦しみ悲しみを同時に味わうことになることがここで述べられています。不遜な女王としてふるまっていたバビロンの最後がこのように悲しく惨めなものであることが預言として語られています。

しかしバビロンによって辱めを受けていたイスラエルにとって、このバビロンの滅亡は救いです。イスラエルはどの様な慰め、希望を受けるのか。イザヤ書54章1-6節において明らかにされています。特に54章5-6節に次のように述べています。

あなたの造り主があなたの夫となられる。
その御名は万軍の主。
あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神
全地の神と呼ばれる方。
捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように
主はあなたを呼ばれる。
若いときの妻を見放せようかと
あなたの神は言われる。

47章の御言葉の理解において大切なことは、バビロンに下される主の審きを一義的にとりすぎないことです。バビロンに向けて語られるこの厳しい審きは、かつてイスラエルに対して語られたように、彼らにも向けたられた救いへの招きの意味をもつことを考える必要があります。ヨナが語った審きの言葉がニネベの町の悔い改めと救いにつながったように、バビロンの陥落の告知は、それと同じ意味を持っています。第二イザヤは、その希望を45章20-23節において明らかにしています。

そして、そこに描かれる悲惨さは、彼らによってその悲惨を味わったイスラエルの立場を逆転させ、希望を与える言葉でもあります。創り主が夫となり、若い時の妻を見放さない神の救いとしてそのことが起こるからです。

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