ホセア書講解

7.ホセア書2章23-25節『恵みによる転換』

ホセアは2章20-22節において、獣の世界との神の契約と、終わりの時の喜びについてしるした後、イスラエルとのヤーウェの新たな契約(婚姻)についてしるしている。それは、イスラエルの救いを、世界の救いの中にはめ込むことにより、ヤーウェこそ自然と歴史の創造者であり、それを今も支配し救い得る神であることを、イスラエルに理解させるためであった。ホセアはまた、イスラエルとの新たな契約を、「エジプトの地から上ってきた日のように」(17節)恵みをもって祝福する神の愛によって実現するものであることを明らかにしている。新たな契約は、ただ神の愛から生まれる、神の赦しに基づくことを明らかにしている。

しかし、イスラエルに対する神の救済史が、最初からもう一度始まるという思想、神とその民との間の新たな契約、というこの観念は、ホセアによって初めて創り出された独自の観念ではない。ホセアは、どこまでも、イスラエルに本来流れる宗教伝統に立って発言している。ホセアにおいて新たにされた点は、その伝統の原則を強調し、その本質を取り出したところにあった。それは、神の愛を力説し、それを中心的な概念として語るところにあったといえる。

2章23-25節は、神とその民との間における、新たな契約における約束が語られている。新しい契約の内容、約束の中心は、内面的・人格的な神と民との交わりの回復にあるが、外的・身体的生存の基本となる物質的な面も含まれている。既にそのことは、20節において消極的に語られ明らかにされていたが、ここではもっと積極的に、自然全体の新秩序の枠組みの中で、民の肉体的生存の手段を与えることを語ろうとしている。

自然的事物も、生産物も神の御手の中にある。その実りは神の憐れみによって与えられる。この主張の背後には、バアル宗教における間違った観念を退ける、神ヤーウェの強い意志がある。その意思は「わたしはこたえる」という絶対的・優越的な立場での主張に見られる。

カナンにおけるバアル宗教において、天は、地(アシュタロテ)に豊穣をもたらすバアル神そのものであると観念されていた。バアル宗教の祭祀においては、祭司は呪文を唱え、犠牲のいけにえを捧げることによって、バアルの神がその願いを聞き入れ、天の恵みである雨を降らせ、豊穣をもたらせると観念されている。その様な祭祀においては、当然、祭司の呪文や犠牲のテクニックが、重要な要素を占めることになってくる。下から上に向かう力が、上から下にもたらす恵みを引き出す、取り引きの手段として重要な位置づけがなされる。カナン宗教に見られるような豊穣儀礼の世界では、呪術の力、敬虔な祈りなどは、自然世界を統御する卓越した力を持つと考えられている。

その様に観念されている世界で、その影響の直中にある主の民イスラエルに対して、「その日が来れば、わたしはこたえる」といって、その観念をひっくり返すような形で、ヤーウェこそが自然世界を支配し、恵みをもたらす神であることを明らかにする、ということがここに宣言されている。

「わたしは天にこたえ 天は地にこたえる」という主の言葉は、下から上に向かう呪術力が、上から下に向かう力を引き出し、支配するのではなく、ただ神の恵みによって、上から下に向けられる力だけが示され、語られている。自然を統御する究極の支配と力とは、神だけが持つ。ホセアは、この事実を、カナンの豊穣儀礼の世界で、拘束力を持っている呪術の観念に対決して告げる。自然的世界を統御しようとする祈りではなく、自然世界をも統御する神に目を向け、敬虔な祈りを、その神に向かって捧げる。真の敬虔、真の宗教性を回復させようとして、愛をもって働きかける神を語る。その神の前での、真実の信仰のあり方を語る。

その意味で、ここを理解する上でも、6章6節の「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす捧げ物ではない」という主の言葉を、胆に銘じる必要がある。

その内奥においてまとめているのは、全被造物は、創造者である神の恵みに全面的に依存しているという信仰であり、創造者なる神の霊と、人の真実の願いを聞かれる神の意志とが、世界の必要を満たしておられるという信仰である。神はその信仰にこたえ、ご自身の救いの計画の道具とされる。この信仰はバアル祭祀における信仰の観念と似て非なるものである。

人の祈りに天(バアル)がこたえるのではなく、神が天にこたえ、天が地にこたえることによって、「地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえる」ことをきっぱりと語る。1章4節では、主の審きとして語られたイズレエルが、ここでは「それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる」と逆転している。しかしここは、よく注意して読む必要がある。イズレエルという地名は、元来、バアル神をさす「エル(神)が種を蒔く」という意味であったが、ここは、ヤーウェがこたえているから、エルはヤーウェの別の名エロヒーム(強きもの、真の守護者)やエルシャダイ(全能の神)の意味に変えられている。

ここでは、自然全体が、神の救いのためにあることが示されている。そのことが明確にされる時、イスラエルにかけられている呪詛は消滅し、祝福に変わり、奇跡が実現される道が開かれる。1章3-9節と関連する呪詛の名は、祝福の名に変えられる、との2章はじめの主張が繰り返される。

25節において、イズレエルの名は、「わたしは彼女を地に蒔き」という言葉でもって、農作物の豊穣を超えて、民の豊穣さの約束に変えられている。すなわち、イスラエルの父アブラハムに与えられていた、無数の子孫を与えるという、あの古い約束の成就をかけた名前となっている。新たな民となることは、神の創造行為であり、それは神の目的であって、人のものではないことが示されている。ホセアは、力強くこのことを語る。民は神のためにあるのであって、もはや自分自身のことだけを求めてはならない、と民の新しい任務を説くのである。

たたみかけるように「ロ・ルハマ(憐れまぬ者)を憐れみ ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって 『あなたはアンミ(わが民)』という」という主の祝福の約束の言葉が続く。

これらの言葉は、民が、神の恵みによって存続することを語っている。「ロ・ルハマ(憐れまぬ者)」という名に表された呪詛は、神の恵みによって克服されたのである。そして神は、その罪のために絆を破った民に向かって、愛において「あなたはアンミ(わが民)」といって、自らを示される。こうしてイスラエルは再び神の民はなり、神だけが行うことができる奇跡を「認める」(知る)ようになり、この知識によって、イスラエルは真実の感謝と崇敬の念をもってヤーウェに向かって「わが神よ」と告白するに至る。

イスラエルをその信仰へと導いたのは、バアル宗教における失望と、挫折の体験ではない。彼らは確かにそれを経験した。それを、神の愛ある審き、として見ることができた時である。その挫折を通して学んだのは、主の言葉の真実である。主の変わらない愛(ヘセド)である。罪の滅びの中にあり、そこへと向かうイスラエルを、愛して止まない主の真実、その救いの意思の崇高さ広さ深さが、イスラエルを悔い改めへと導く。この神の審きと、恵みを通して、民は神の民に新たに造り変えられる、これがこの章に示されているメッセージの中心である。

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