列王記講解

13.列王記上19:1-21『静かにささやく声』

たった一人でバアルの預言者450人、アシュラの預言者400人とカルメル山で戦い、勝利した輝かしいエリヤの姿は、イズレエルにおいては全く見られません。この物語に見られるエリヤの姿は、イゼベルというたった一人の狂信的なバアル信奉者の復讐を恐れ、逃亡し、信仰さえ見失いかけている哀れな預言者のそれです。なぜエリヤの霊的力がこんなに急激に低下したのか、そして、この神の山ホレブへの退歩の理由を知ることは、真の信仰の力を知るためにきわめて重要なことです。このエリヤの信仰の危機の物語は、18章の輝かしい勝利の物語より、真実の信仰のあり方をより深く教えられる物語です。

エリヤがバアルの預言者をキション川に連れて行って剣で皆殺しにしたという次第聞いたイゼベルは、エリヤに使いを送り、彼が殺した「預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように」という復讐を明らかにしました。

バアルとアシュラの預言者850人とたった一人で戦ったエリヤが、このようなイゼベルの復讐を恐れることなどありえないと、この物語を読むものは期待しますが、「それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた」(3節)といわれています。エリヤは「わたしの神はヤハウエ」という名の意味にふさわしい人物として、彼の言葉と行動は、「わたしの神はヤハウエ」であることを証する生き方が求められていました。他方、イゼベルの名には「君(バアル)はどこにいるのか」という意味があり、彼女の神バアルの名で彼女が誓いをするその行為は、バアルへの信仰告白を意味していました。それ故、この二人の存在と行為は、その人物と一体となっている神を指し示すことになりました。

それでは、エリヤがイゼベルの復讐を恐れ逃げ出すその行為は、彼が証すべき神の無力を意味するのでしょうか。その神を証すべきエリヤの信仰後退は、神の彼への働きかけの弱さを物語るのでしょうか。

この時のエリヤの行動は、彼への主なる神(ヤハウエ)の呼びかけと行為から、推察することができます。彼は、カルメル山における奇跡を期待し祈ったのではないかと思われます。しかし、神はその祈りにぜんぜん応えられず、多くの主の預言者が殺され、一度主への信仰に立ち帰った民も主の契約を捨てる生き方にもどってしまった現実を見て、主なる神への信仰が萎え、失望と恐れの中で、彼は恐ろしい現実から逃げ出したのだと考えられます。

彼はイスラエルを越え、南のユダ王国の最も南に位置するベエル・シェバまで逃げ、そこで従者を残し、彼自身は一日の道のりほど歩き、南にあるネゲブの荒野に入りました。彼はそこでえにしだの木の下に座り、命の絶えるのを願ったといわれます。えにしだの木(ローテム)は、葉は小さく、木陰にするほど十分な大きさはありませんが、他に大きな木のないネゲブの荒野では、強い日差しを避けることのできる数少ない木でありました。エリヤはえにしだの木の下に座り、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(4節)と言って命の絶えるのを願い、眠ってしまいました。彼は死を覚悟し、それを願ってそこにいたわけですから、食べ物や、飲み水も用意もせずにいたのでしょう。だから陽が激しく降り注ぐ荒野で、眠ってしまうという事は、そのまま死を迎えることにつながりました。

しかし、エリヤが死に場所と選んだその場所に、主の御使いが現れ、彼に触れ、「パン菓子と水」を与え、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と励ましました。エリヤが死を願ったその場所は、実は主が彼を導くために選ばれた場所となりました。

エリヤは、からすでも、やもめでもなく、主から与えられたパンと水に力づけられ、「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした」(8-9節)といわれます。「四十日四十夜」は、モーセが神の山ホレブで二度過ごした(申命記9:8-25,10:10、出エ24:18,34:28)出来事を想起させます。モーセは、神の山ホレブで、主から「十戒」を授けられました。エリヤは、イズレエルで、カルメル山のときのように、主の奇跡的な力でイゼベルに勝利することを願いましたが、主の奇跡的力も主の御声も聞くことができず、主(ヤハウエ)がバアルよりも力強い神であることを証することができず、戦いの場から後退し逃げ出してきたのです。しかし彼は偉大な預言者モーセが、神から「十戒」を授けられた神の山ホレブに、神の恩恵の力で導かれ、モーセと同じように、主の言葉を聞き、主の御前に立たされたのです。

そこで彼が最初に聞いた主の言葉は、「エリヤよ、ここで何をしているのか」でありました。この主の御声は、エリヤに、「お前には、わたしを証するつとめがあり、ふさわしい働き場所があるであろう。そうであるのに、エリヤよ、お前はここで何をしているのか」と告げるものでありました。しかしこの御声を聞いたエリヤは、「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」と弁明しています。もはや主を信じて生きているのは自分ひとりとなった今、そして命をつけねらわれている状態で、このわたしに何ができるといわれるのですか、といって、エリヤは奇跡を期待して応えてくれない主への苛立ち、不満を表明しているのです。

あの自分が一番輝いていた日が忘れられずに、エリヤはその日が再び来ることを願う後ろ向きな生き方をしていました。今ここであの日のように力をあらわしてくれない神に、エリヤは失望の色を隠せないのです。エリヤは今なお神の奇跡的力で、人々をバアル礼拝から引き離し、真のヤハウエ礼拝者にしたいと願っていたのです。しかし主はその様なエリヤの祈りに応えられないのです。

このエリヤの不満の表明を聞いた主は、再びエリヤに語りかけ、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。」といわれた後、主は彼の前を通り過ぎ、激しい風が吹く奇跡、地震の奇跡、火の奇跡を次々に行われました。しかし、そのいずれの奇跡にも、「主はおられなかった」といわれています。エリヤはこれら一連の奇跡を見ても、そこに主の臨在を見ることができなかったのです。というよりもこれらの奇跡によっては、エリヤに主はご自身の臨在を示されなかったのです。

しかし、「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(12節)といわれています。そしてこの「静かにささやく声」を聞くと、「エリヤは外套で顔を覆った」(13節)と記されています。これは、モーセが神の山ホレブでしたのと同じしぐさです。神の顔を見たものは生きられないと考えたからです(創世記32:31)。エリヤが「静かにささやく声」を聞いた時に、その様な行動をとったという事は、「静かにささやく声」で語りかける神の臨在を知ったことを示しています。

神は力ある奇跡においてもご自身が神であることを表されますが、そのようなことがなくても、「静かにささやく声」においてご自身が神であることを明らかにされ、臨在と奇跡を行われることができるのです。否、むしろその様に神はご自身の臨在と救いを明らかにされるのです。

神の臨在を知り、顔を隠し恐れを抱いて、洞穴の入り口に立っているエリヤに、主は再び、「エリヤよ、ここで何をしているのか」とよびかけられました。しかしエリヤはなおも同じ答えを繰り返しています(14節)。エリヤは、主の臨在に触れても、主の派遣の言葉を聞かないと、その恐れの中からまだ立ち上がれないのです。まだ自分を襲う反対する力に立ち向かうことができないのです。

その様なエリヤに恐れを取り除く主の派遣の言葉が与えられました(15-18節)。これらの派遣の言葉にもかかわらず、ハザエルとイエフに接触したのはエリヤではなく、彼の後継者エリシャです。またエリヤが後継者にするエリシャに油注ぐことについては、何も聖書は報告していません。旧約聖書において油注ぎを受けるのは、祭司と王です。預言者が油注ぎを受けたという報告はありません。その職務への召命が油注ぎにより明らかにされるのではなく、直接神から来、その預言者の真実性は、その預言が成就することにおいてです。

エリヤに告げられた主の言葉が彼において成就せず、その後継者エリシャにおいて成就したとしても、主の言葉が真実でないという事はできません。主はこれらの言葉の真実を、その成就において明らかにされます。そして、ここで示されたエリヤに対する主の言葉はまことに厳しい、エリヤのその預言者としてのつとめが終わり、バアル宗教を蔓延させたオムリ王朝の罪を裁く任務を、エリヤに替ってハザエル、イエフ、エリシャが継ぐことを告げる主の言葉が語られているからです。主に対する信頼を失い、イゼベルを恐れて自分の持ち場から離れたエリヤにはもはや働きの場が残されていない厳しさがここに明らかにされています。

そして、エリヤは自分ひとりだけが主を礼拝する者として残ったと考えていましたが、「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(18節)という主の言葉を聞きます。「七千」という言葉は象徴的に言われています。七は完全数で、千は多数を表す数字です。七千人という数が表しているのは、ですから文字通りの数を示すものではなく、多くの戦いがなおあるが、神はその忠実な民の生存をご自身の誠実さにかけて残され保証されるという約束が語られています。

イゼベルの恐るべき陰謀や、バアル宗教への誘惑や攻撃に打ち勝つ力と奇跡は、神の目に見える奇跡的力でいつも表されねばならないのではなく、またそのようなことを期待する信仰が真実なのでもなく、「静かにささやく声」として語られる神の言葉に聞く信仰にその力と恵みが表されます。神はその様な「静かなささやく声」の中にご自身の臨在と力と恵みを表される方であり、神の選びの民は、エリヤの信仰の熱情の力で保たれるのでなく、神ご自身の熱情と支える力で保たれるのです。ここに確かな大きな慰めがあります。なぜなら一人で850人ものバアルとアシュラの預言者と戦って勝利できるエリヤですら、信仰のスランプを経験し、その持ち場を離れるようなことがあり、死を願うほど弱くなることがあるからです。しかし、主は誰もいないと思えるところにも、主の民を失われないように残される神として存在されるからです。この神への信頼に生きる信仰をイスラエルの民に教えるために、神は最後まで信頼を貫き通さなかったエリヤを退けられたのですが、神の救くいの計画は、それによって挫折したのでも、停止したのでもなく、神はご自身の変わらない熱情によってその救いを実現されるのです。そうすることによって、神こそが歴史を支配し、救いを完成させるお方であることを明らかにされるのです。わたしたちに求められているのは、この神の厳しさと、確かさの両方を知り、自らの召命を考えることです。召命とその務めとの関係でいうと、その人が大切なのではなく、彼に与えられる務めが大切なのです。わたしたちはどんなことがあってもその務めから離れてはならないことをこの物語から学ぶことが大切です。

神は、エリヤに変わる後継者として、エリシャを立てておられます。エリシャは「十二軛の牛」を使って耕作することができるほど、裕福な家の子として生まれたことが物語られています。エリヤはそのエリシャに自分の外套を投げかけ、後継者に指名しました。「エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い」、父母と別れの時を過ごす許可を得た上で、従いました。「一軛の牛」を屠るのは、古い生活と決別し、預言者の生活に完全に委ねる象徴的な行為として報告されています。

エリヤは、イスラエルには主を信じ主に従う者として、「わたし一人だけ残った」と思っていましたが、多数のバアルにひざをかがめない真の主を礼拝する者が残されていました。また、エリシャのような後継者まで主が備えられる主の約束を、「静かにささやく声」として聞くことができました。

神のこのような恵みの力は、今も変わりなく表されています。鮮やかな奇跡的、英雄的信仰を求めるのではなく、「静かにささやく声」として語られる主のことばに聞き、その言葉の人格的な交わりの中で表される主の恵みの力に委ねることによって、真の信仰が養い育てられ、あらゆる逆境にも打ち勝つ信仰が与えられるのです。そのことを覚えることが大切です。

旧約聖書講解