ハバクク書講解

6.ハバクク書3章16-19節『主によって喜ぶ』

ハバクク書3章16―19節は、3章1節から始まる終末論的賛歌の結語部分に当たります。そして、同時にハバクク書全体の結語を構成しています。

ハバククは、16節において、「それを聞いて、わたしの内臓は震え/その響きに、唇はわなないた。腐敗はわたしの骨に及び/わたしの立っているところは揺れ動いた。」といって、彼が受けた主からの啓示の内容が、直ちに事態を好転させる自分の期待したものとは全く違っていたことを述べています。

それゆえ、腸(注.はらわた、マタイ9:36「深く憐れまれた」という語は、(「はらわたを揺り動かす」スプランチニゾマイマイ、名詞スプランチノンに由来する、内臓は人間の感情の座であるとみなされていたため、同語は「憐み、愛」などの意味に転化、それが動詞化した。腸が揺れ動き、唇ががたがたして震え、腐敗が骨の髄まで及ぶような悲惨な苦しみを味わい、まともに立てないほど立っているところが揺れ動くのを経験したことを回顧しているのであります。

それは、2章1節において、「神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」といって彼が実際見た幻、主から与えられた啓示の内容でありました。

ハバククは、この戦慄すべき啓示に、最初、驚き、愕然とさせられたことでしょう。しかし、主の前に不信仰を表明し続ける民の現実を同時に顧みるなら、それがどんなに身を切られるほど辛い審判であっても、甘んじて受けねばならない。審きがどんなに厳しくとも、それが主の審きである限り、そこには希望があり、その審きの言葉を聞き、悔い改めを表す者には、良き使信となることを告げているのであります。
ハバククは、畏れつつも、それが主の救いとなるよう、静かに待つことを心に決めました。「わたしは静かに待つ/我々に攻めかかる民に/苦しみの日が臨むのを。」(16節後半)、ハバククは、この祈りの姿勢で、救いの神の出現を、希望をもって待ったのであります。

ハバククが待ち望んだのは、神がその役割を与えたカルデア(バビロン)以上に振る舞って、神が選んだその選びの民イスラエルに敵対しているものに神の審きが与えられることでありました。神の勝利が、神が選んだその民にだけ現されることを望む、という意味では、ハバククの救済の視野は、イザヤやエレミヤなどの預言者たちより狭められています。しかし、その救いが世界の諸国民から選ばれた民に対するものであり、主の主権的な歴史支配と恩恵としてなされる限り、イスラエルがそのことの故に自民族の優越性を主張することはできません。

その救いの恩恵は、イスラエルという限られた特殊な民からはじめられるにしても、やがてイスラエルに経験させた受難を、神自らが引き受け、主なる神の自由な恩恵によって、地の果てまで、福音は諸国を駆け巡ることになるのであります。

しかし、今は、主の前に罪を犯したとはいえ、主の民として選ばれた民イスラエルを、主は救わねばならないものとして、彼らを懲らしめつつも救われるのであります。主の委託を超えた不法の審判者は滅びるよりほかにないのであります。

17節の「いちじく」「ぶどう」は、ここでは、貴重な果物というより、重要な食料、エネルギー源として言及されています。オリーブもまた日常生活の必需品でありました。大切な食料等の必需品や羊や牛など欠く事のできない家畜まで取り去られては、人は生きていくことはできません。
主の救いを期待しているにもかかわらず、相変わらず、主の救いは遠く、すぐには来ないのであります。しかし、それでも、ハバククは、慌てず、静かに待ち望むのであります。

これまでハバククは、主と議論し、抗議をしてきました。しかし、今や、ハバククの口からその様な抗議の言葉は出ていません。直ちに事態が好転したからでしょうか。そうではありません。事態は好転せずとも、ハバククは、次のような主の言葉を聞いたからであります。

定められた時のために
もうひとつの幻があるからだ。
それは終わりの時に向かって急ぐ。
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても、待っておれ。
それは必ず来る、遅れることはない。(2章3節)

ハバククは、この啓示の言葉によって信仰を強められました。だからハバククは、なお続く悲惨な現実を前にしても、「しかし、わたしは主によって喜び わが救いの神のゆえに踊る」(3章18節)と語ることができたのであります。
わたしたちの失われることのない喜びはどこから来るのでしょうか。自分の努力や才覚で獲得できるものでしょうか。それは確かに大きな喜びの一つには違いないのですが、失われることのない喜びとなることはできません。なぜなら、それがわたしたちの命を保証し与えるものでないからであります。

失われない、不滅の喜びは、主から来ます。それは、主イエス・キリストの十字架によって与えられる喜びであります。主イエスは、わたしたちの罪を背負い、十字架に死に、三日目に墓より復活し、朽ちることのない霊の体と永遠の命が与えられるとの約束があるからであります。

だから、ハバククは言います。「しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る」(18節)と。主にある喜びこそ、どんな深い失意のどん底にある人をも立ち上がらせることができるのであります。その同じ喜びに生きる愛する者との歩みを覚え、慰めを受けることもできます。しかし、それには信仰がいるのであります。ハバククは「神に従う人(義人)は信仰によって生きる」(2:4)といっています。「主によって喜ぶ」ことは、わたしたちが信仰によって生きていてできることであります。ハバククは、その信仰によって、「主によって喜ぶ」幸いを得たのであります。

そして、「わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし/聖なる高台を歩ませられる。」(19節)と力強く告白しています。

どんなに大きな困難や、脱出できないような深みにはまっても、預言者は立ちあがることができました。主なる神が、わたしの力となってくださるということが分かっているからであります。

悩みの深き淵にはまって、立ちあがれない人がいます。それは、その人の信仰が、「わたしの主なる神は、わが力」となっていないからであります。主なる神は、「わたしの足を雌鹿のようにし/聖なる高台を歩ませられる」方であります。しなやかで、どんな悪路も、困難な道も、まるで平らで何でもないかのように飛び跳ねて通ってしまえる雌鹿のような足を与えてくださるというのであります。しかも、その足を主の聖なるご用のために用いる幸いを賜ると言われています。「聖なる高台」とは、神を礼拝する、神と交わりを持つ場所であります。

いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。(イザヤ書52章7節)

キリスト者の足は、走っても疲れない(イザヤ40:31)だけではありません。福音のために、わたしたちは、山々を行き巡られる強い喜びの足として用いられるのであります。

わたしたちは、その様な足に自分がされていることを、どれだけ光栄に覚え、自覚して歩んでいるでしょうか。ハバクク書は、最後にこの光栄の道に、わたしたちを招き、その道をいつまでお歩み続けるようにとの喜びの献身への呼びかけで終わっているのであります。

その呼びかけは、あなたに対してなされているのであります。

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