アモス書講解

12. アモス5章11-12,16-17節「貧しい者への圧迫」

5章7-13節と16-17節は災いの預言に属しているので、6節と14節のつながりを断ちきっているということを前回指摘しました。今日は、その災いの預言のうち、11-12節と16-17節において一つのまとまりをなしている「貧しい者の圧迫」に関する預言を取り扱うことにします。

バイザーという注解者によれば、11節は導入の言葉を前提した言い方であって、預言の冒頭の言葉ではない、従って、12節が預言の冒頭の言葉であったと言われます。一応その指示に従って、その順序で取り扱うことにします。

12節において語っているのは、神自身です。この神の言葉は、人々の思い違いに対して向けられています。その思い違いとは、神は自分たちの行為に同意しておられるのだとか、神は自分たちの過ちを深く追求されることはないのだというものでありました。こうした思い違いに対して、神は厳しい調子で糾弾しています。ここに言及されている「正しい者」と「貧しい者」は、2章6節の場合と同様、同義的に用いられています。そして、ここで対象となっているのは、貧しい農民です。彼らは大地主の下にある小作人として、高い小作料が払えず、大部分奴隷の身分に転落していっていました。身内の者が「身請金」を支払って贖い出さない限り、貧しい農民は、借金の証文によって奴隷の身分に落ちていきました。

「町の門」は裁判が行われるところでありました。そこでは金持ちの大地主が、賄賂を用いて正義を曲げる判決を勝ち取っていました。無産は、法の保護のないことと同義でありました。貧しい者は裁判官を味方に引き込む賄賂の手段を持たないため、公正な裁判に与れなかったのです。正義と公正が貫かれるべき裁判の法廷が、賄賂によって曲げられ、債務奴隷の売買を正当化する判決の場となっていました。

しかし、主は、「お前たちの咎がどれほど多いか、その罪がどれほど重いか、わたしは知っている」といって、その罪を糾弾しておられます。貧しき同胞への責任は、旧約聖書の使信においては、神への責任に源を発しています。この主による糾弾は、その事を再確認する言葉です。

12節において一般的に述べられた事柄が、11節において具体的に述べられています。貧しい農民に苦しみを与えた元凶は、「穀物貢納」にありました。これがあるため、貧しい小作人たちは、収穫の大部分を地主に払わねばならず、わずか残った穀物では、食べていくことも困難でありました。彼らの奴隷化への道は構造的に用意されていました。アモスはこの抑圧された貧しい農民に対して共感を示しています。それは、アモス自身の牧羊者としての体験から知る、下層の農民の悲惨に対する洞察として説明されるべき事でしょうか。それもあるかもしれません。しかし、アモスは、抑圧された労働者階級の階級的憎悪を表明しているのではありません。また社会倫理の問題として発言しているのでもありません。アモスは、これをあくまでも宗教的観点から見ています。アモスの言葉は、神の視点から理解されるべきです。

12節が神自身の言葉であることを最初に言及しましたが、ここでもそのことは変わりません。アモスは神の言葉に人々を直面させているのであります。自分の行為に対して良心の呵責を一つも感じない大地主の無頓着は、何人も避け得ない神の「わたしは知っている」という言葉に直面させられているのであります。彼らが如何に神を無視しようとも、神は彼らを見逃しません。彼らの神を無視する無頓着な振る舞いに対して、神の沈黙の期間が長く続きます。この沈黙の期間を、彼らは、自分たちの行為に対する神の同意、あるいは無関心であると判断していた節があります。しかし、アモスは、神の前には如何なるものも隠れたままであったり、忘れられたままであり得ない現実を明らかにします。沈黙という神の忍耐から、人間の行為に対する神の同意や無関心を結論するのは誤りです。アモスは、「わたしは知っている」という神の言葉を置いて、神が人の罪を知っていることを明らかにします。それによって神に対するあらゆる幻想を閉め出します。

11、 12節に続くのは、16節の災いの威嚇です。預言者は聴衆を脅かす死の前に立たせます。貧しい者を裁く時に用いられた通りや広場は、今や挽歌や嘆きの叫びで満たされます。その時、人々は、死んだ者たちがその生前にそんなにひどく圧迫したり苦しめてはいないと考えられる貧しい人々のところに行き、彼らに死人たちの挽歌を歌うように頼まねばならないようになるといわれます。死に直面すると、事態は全く異なった様相を呈します。その時、人々は、それまでただ自己の利益追求の搾取の対象としてしか扱うことを知らなかった下層の農夫たちに、挽歌の歌い手として、最後の慈善奉仕を願わねばならないことになります。アモスは、この立場の逆転、逆説を不可避な現実として示します。アモスは、この印象深い出来事を支配する神の意志に対する真剣さと畏敬へと人々を促します。

アモスが聴衆を死の前に立たせる時、彼は単にすべての人々が直面している不可避な運命の問題を語っているのではありません。アモスが語るその死とは、神の審きの遂行としての死です。アモスはそのことを明らかにするために、17節で最後にもう一度神に言及しています。その民のうちにおける過ちに、恐るべき終わりをもたらす神に言及します。

「わたしがお前たちの中を通るからだ」(17節)といって、その不可避な現実を神は示します。この言葉によって神が彼らに現臨される事実を指し示します。アモスの言葉を聞く者は、神の現臨の前に立たされています。しかし、民は度々神の現臨を見過ごしていました。この神の現臨の事実を見過ごす人間は、真剣に神のことを考えず、その意志を問題にしなくなります。

しかし、アモスは、あらゆる出来事の中で生きて働く神との出会いを示します。神はそこにいまし、現臨しておられます。「ただ神の御前に!」(コーラム・デオ)。人は常にこの事実を見なければならないのです。預言者はこの事実を指し示し、人間の人間に対する社会的責任、人間と神との間の根源的関係のあり方を問います。そして、神の秩序が否定され踏みにじられている所では、審きを告知せざるを得ないのです。

アブラハムに対しては、神が二つに引き裂かれた動物の間を通ること(創世記15章)は、救いを意味していました。しかもそれは夢の中で語られた神の言葉でありました。神の自己犠牲による救いと祝福の言葉として示されていました。しかし同時に、引き裂かれた動物は、神の秩序と意思を無視し罪を犯して生きる者には、自らの最後であることも意味されていました。貧しき者と主の正義と公義を無視して、彼らを搾取し続けた者の、最後の逆転としての主の審きの現実を、アモスは「わたしがお前たちの中を通るからだ」という言葉で意味深長に告げています。

「わたしがお前たちの中を通るからだ」という言葉を主は語られます。そして、人間の生ける現実の中で、主は毎日、毎日、瞬間、瞬間、その様に通り過ぎておられます。無頓着に、のんびり自己の利益のみ求めて生き、長い神の沈黙が自己の生き方を肯定し、その繁栄が神の祝福であると取り違えて、神を素通りするように神の意志を無視して生きる者に向かって、この言葉は語られています。また、その者の死を嘆いている家族に向かってこの言葉は語られています。

ルカ福音書16章19節以下の「金持ちとラザロ」の主イエスの譬話は、同じ主題を語っています。自らの死の苦しみを、兄弟たちに味わせたくない死んだ金持ちは、父アブラハムにそうならないよう彼らにラザロを遣わしてほしいと願いますが、アブラハムは「お前の兄弟たちには、モーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えています。そして、死んだ者の中から悔い改めるように呼びかける者があれば兄弟は悔い改めるだろう、との死んだ金持ちの訴えに、モーセと預言者に耳を傾けない者にそれは無駄なことであると告げています。

アモスのこの預言に、赦しは語られていません。神の現臨とその言葉を無視した者の悲惨が、貧しい者と富む者の逆説として語られているだけです。しかし、アモスは、この逆説を語ることによって、聞く者に真の悔い改めを求めています。主イエスがあの譬話の中でアブラハムの言葉として「モーセと預言者」といっているのは、聖書に聞けということです。勿論その中に、アモスのこの言葉は含まれています。

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