サムエル記講解

42.サムエル記下11:1-27『バト・シェバ』

ダビデとバト・シェバとの物語は、聖書が記すもっともスキャンダラスな事件です。部下に深い思いやりを示していたダビデは、臣下の者から厚い信望をえていました。神の御心を行うことにかけても、誰よりも熱心を示した王でありました。それゆえに、このバト・シェバとの一件は信じがたい蛮行として、躓きを覚える事件であります。聖書が世界に向って神の救いと恵みの歴史を告げる書であるなら、神が選んだメシアの原像として扱われる王のこのようなスキャンダルを隠して記さない方が都合よいように思えます。事実、大部分サムエル記のテキストに従っている歴代誌は、この出来事だけは、削除しています。偉大な王ダビデの名誉が失われる汚点となることのないように顧慮したのでしょう。

しかし、サムエル記は何のためらいもなく、この偉大で敬虔な王ダビデの一大汚点となるこの出来事を赤裸々に記録しています。それは、イスラエルの歴史の中で最高の敬虔王としての模範的行動を取ったダビデでさえ、このような「主の御心に適わない」(27節)罪を犯したことを報告することによって、人が王として支配する歴史の問題を示し、その歴史を理想化し奇麗事で片付けようとする歴史観に対する警告を与えるためです。それによって、神の事柄は、決して落ち度のない人物たちによってではなく、神自身によって成就することが物語られています。神に属する最上の人々の罪深さにもかかわらず、神の計画は変更されることなく進められます。この王国を完成させるのは、地上の王ではなく、神の恩寵の力です。そのことをこの物語から読み解く信仰の目が私達に求められています。

ダビデはアンモン人との戦争をヨアブにまかせ、自分は戦場に行かず、エルサレムに留まり、王宮で悠悠自適の生活をしていました。夏の猛暑を避けるため、ダビデは涼しい宮殿の中で午後のひととき、昼寝をとっていました。ダビデは宮殿の中に、モアブの王エグロンように屋上にしつらえた涼しい部屋を持っていて、その部屋で昼寝をしていたのでしょう。この日午睡から目覚めたダビデは、夕暮れ時にその屋上の間から抜け出し、王宮の平らな屋上を散歩していました。宮殿は、周囲よりひときわ高い場所にあり、立派な建物でできていて、となりの家々の庭さえらくらくとを見下ろすことができました。欲すればとなりの家の中や庭での生活を覗き見ることはいくらでも可能でした。今日のエルサレムでもそれは容易になし得るといわれています。

それを知っていれば、この日のバト・シェバ行動は、用心の足りないものとして非難されても仕方ない面もあったかもしれません。しかし、そのことによってダビデが覗き見たことに罪はないということはできません。ダビデはこの美しいヘト人ウリヤの妻の裸を垣間見て、欲情を覚えました。ダビデは単にその女性の裸を見て欲情を覚えたというだけに止まっていたのであれば、それほどの罪を問われることもなかったでしょう。

ダビデの第一の罪は、人をやってこの裸の女性がどういう素性の人物であるかを十分調べさせた上で、改めて使いをやり、ヘト人ウリヤの妻である事実を知った上で、召し入れ、王の権力を傘にして召し入れたことにありました。ダビデの罪は、たまたま女性の裸を見て衝動的に犯されたというものでなく、その欲望を制することなく、欲情に委ねて王の力を利用して彼女を自分の床に召し入れて、思うがままにしまったことにありました。バト・シェバがそれをどう考えたかは何も語られていません。バト・シェバは、この後、家に帰されますが、妊娠したことを知り、ダビデに使いを送り、その事実を告げました。ダビデはこの事実に狼狽し、動揺したことと思います。それゆえ、この不祥事を自分で覆い隠そうとする手段を直ちにとろうとしました。

そして、ダビデの第二の罪が犯されることになります。それは、ヨアブに命じて戦場から彼女の夫ウリヤを送り返させ、その妊娠がウリヤとバト・シェバの間でなされたように装い、その罪の行為を覆い隠そうとした罪です。イスラエルの王といえども法の外にいるのではありません。ダビデはこの名案によってウリヤが生まれた子の父親に見えるようにして、自分の罪を覆い隠そうとしたのです。

ダビデは、戦場から帰って来たウリヤにいかにも戦況が気にかかるといわんばかりに、ヨアブの安否や戦況のことなどについて尋ねたました。そして、戦場で戦いに明け暮れたこの勇敢な戦士ウリヤに対し、王は特別なからいによって、しばし休暇を与えるという意味で、「家に帰って足を洗うがよい」(8節)と告げました。この語には、隠喩があり、夫婦としてのくつろぎの時を持つようにという意味があります。

ウリヤはこの王の特別な計らいにもかかわらず、妻の待つ家には帰らず、王宮の入り口で主君の家臣と共に眠りました。家には王からの贈り物が届けられていましたが、それに目を留めることもありませんでした。彼は戦場で今も戦っている同士たちのことを考えると、自分だけ家に帰って夫婦のくつろぎなど持てないと考えたのです。

ウリヤが家に帰らなかったという知らせが、ダビデの所に届けられました。ダビデはせっかくの名案と思って実行したことが功を奏さず、焦りが生じました。

ダビデはウリヤに、「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」(10節)尋ねて、せっかくの王の好意を受けるように改めて勧めます。それは自分に都合のよい下心から出た「好意」で、王にはウリヤに対する道義的な責任や、自らの行為に対する謝罪する気持ちなど、微塵も見られません。ダビデの心は、自分の罪が暴かれないようにという恐怖で満ちていたに違いありません。

しかし、ウリヤは、その名が「主はわが光」という意味を持つにふさわしい、人物でありました。彼の信仰も態度も王に勝る真実なものでした。ウリヤは、「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」と答え、王の好意を辞退しました。

ウリヤの返事を聞き、ダビデはもう一度重ねて促しました。そして、彼の滞在を一日繰り延べさせて、王宮で宴会を開き、酒に酔わせて淫らな気持ちにさせて、妻の下に行かせようとしました。しかし、兵士としての心得を大切にする彼の心は微動だにせず、自分の家に帰ることはありませんでした。

ダビデは自分の奸計が失敗したと知ると、今度は彼を最も危険な戦場に送り戦死させることを企てました。その計画を実行すべくダビデはヨアブに宛てて書状を書き、それをウリヤに預けました。ウリヤはそんな手紙だとは知らず、それを戦場の指揮官のもとに急ぎ手渡しました。ヨアブは王の手紙の内容から、王の考えを十分に理解し、王の願いを実現すべく、町の様子を観察し、最も危険と思われる戦場にウリヤを出撃させました。そこには、前章で見られるような敬虔な神を恐れる人の姿はなく、冷徹な王の命令を実行する将軍の姿に戻っていました。

そして、この戦いで王の願い通りウリヤは戦死しました。しかし、この戦いで戦死したのはウリヤだけでなくダビデの家臣と兵士たちの幾人かも巻き添えになって戦死しました。ここにはかつての部下思いの王の姿は微塵も見られません。王の評判を完全に失墜させるスキャンダルになるのを恐れ、ダビデはこのような恐るべき行動をさえ平気で取るほどに、その心は神と共に生きる姿からはほど遠いものになっていました。

ウリヤが戦死したかどうか知りたがっているダビデの下に、その一部始終を語るヨアブからの使者が遣わされました。その報告を聞いたダビデは、その自らの責めを認めないために、「なぜそんなに危険な町に接近して戦ったのか。」といって、ヨアブの責任を問うかも知れないから、ヨアブも自らの責任を問われないように、その際に王に答える言葉を教え、使者を遣わす抜け目のない知者ぶりを示しています。

使者は教えられた口上を王に伝えました。ダビデはウリヤの戦死の知らせを聞くと、ほっとしたのか、幾人かの戦死者が出たことに、責めを少しも感じる必要がないことをヨアブに伝えるよう、使者に答えました。

これによって、王もヨアブもその対面を保つことに成功します。ダビデはこうして自分の不祥事が公となることを防ぐことに成功したかに見えます。少なくとも人の目を完全に誤魔化すことに成功します。

しかし、ここにダビデの第三の罪がありました。ダビデは自分の姦淫の罪が発覚しないように、ウリヤだけでなく多数の者を危険な戦場に遣わして死なせる、まことに部下を思いやらず、自分の立場だけを大切にする、他の国の王と変わらない行動をとったからです。

忠実で誠実な部下ウリヤは、何の罪もないのに、ダビデの邪な自己願望の実現のため、最も危険な前線で戦死し、他の兵士まで巻き込まれて戦死する。王ダビデはこの事態に何の責任も取ろうとしていません。

その罪が重大なものであればあるほど、一度罪を犯した人間は、その罪を隠蔽し、明るみにでないようにする傾向があります。しかし、そこからさらに大きな罪が犯されることになります。一つの罪を隠すために次々に罪を犯す人の罪深さ恐ろしさを、この物語は明らかにしています。それが敬虔な王と誰もが認めるダビデによって犯されただけに、私達には大変なショックを受けます。

ウリヤとバト・シェバの夫婦は、ダビデによってその夫婦の生活をめちゃめちゃにされました。バト・シェバは夫ウリヤの戦死の訃報を聞くと、呆然としてひざからガクッと崩れるような気持ちにさせられたことでしょう。

ダビデはこれ幸いとばかり、バト・シェバを引き取り、妻に迎え入れました。バト・シェバは自分の夫を死なせた王のもとに嫁がねばならない自分をどうすることもできません。生きていくためには、王の妻となるしかなかったのです。

サムエル記の記者は、ダビデのしたこの罪を27節に「主の御心にかなわなかった」といって断罪しています。そして12章で、預言者ナタンの叱責の言葉を記し断罪しています。このようにサムエル記は、ダビデのこの罪を一つも隠すことなく、徹底して明らかにします。

絶頂の王の罪をこのように赤裸々に描くことにより、すべてを自由にできるようになる人間の欲望の限りなさ、その罪への誘惑に負ける人間のもろさと弱さとを明らかにしかし、読者に同じような罪を犯すことのないように警告を与えています。この罪を犯したダビデを非難することは簡単です。しかし、わたしたちにも、この罪への誘惑から自由ではないことを、悟り戒めとするようにこの御言葉は警告します。

しかし、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」といわれていても、サウル王のように、ダビデはその王位が続かないといって退けられてはいません。それは、ダビデの罪がサウルの罪より軽かったからでしょうか。そうではないでしょう。神がこの罪にもかかわらず、ダビデを捨てられなかったからです。神がなおダビデを愛し続けておられ、赦しておられる、これ以外にダビデが立っていれる理由はありません。わたしたちが神の前に立つことができるのも、キリストのゆえに神が赦し、神の恵みがわたしたちに向けられ続けているからです。

だからといってその罪が何のとがめだても受けないというのでもありません。神は預言者ナタンを通し、その罪を明らかにし、本来なら赦されざるものを、悔い改めへ招かれます。ダビデのこれほどの罪をさえ赦す神、この神が、悔い改めて立ち帰るように、わたしたちを今も招いてくださっています。

旧約聖書講解