詩編講解

5.詩篇第5篇『神の決定』

この詩篇は個人の嘆きの歌に属します。しかし、嘆きの歌が本来祭儀の場で歌われるものであったことを思い起こすとき、個人の嘆きは同時に信仰共同体全体の関心事でもあることが分かります。彼は信仰共同体の代表として苦しみ祈っています。パウロがIコリント12:26で「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」といっている通りです。

この詩は、8節から朝のささげ物のときに神殿で唱えられたものと考えられます。この詩全体から見て作者は、「神を信じない者たち」のグループに圧迫されていた「神を信ずる者たち」の信仰共同体に属すると思われます。この詩人は「神を信じない者たち」の陰謀に対して神殿で神の決定を求め、神の庇護を願っています。

この詩の構造を概観すると次のようになります。

2-4節、神に呼びかけている導入部。

5-7節、神の前での告白の形で、神殿に出入りすることを許されていない「神を信じない者たち」に対する神の関わり方を一般的な反省として述べる。

8節では、それと対照的に、神の前での自分の状況を概括し、9節で正しい導きを求める個人的な願いに移っていく。

8-9節が導入部の内容に戻っているのに対して、10-11節では、敵の判決と絶滅を求める願いが、5-7節と対応しています。

クライマックスは、最後の段落である12-13節において、「神を信ずる者たち」の信仰共同体に対する神の恵み深き助けに目を注ぐ信頼に満ちた眼差しのうちにおいて結ばれています。

2-3節の導入部で、神への呼びかけと、祈りを聞き届けてもらおうとする嘆願が繰り返されていますが、これは祈り手の魂の姿を示しています。熱心に繰り返される彼の願いは、そのまま彼を圧迫する苦難の大きさと、祈りが聞き届けられることが彼にとっていかに切実な問題であるかを示しています。これらの嘆願は祈り手を神に近づける道です。彼はこの嘆願を通して一歩一歩高まりつつ、心のうちに正しい祈りの姿勢が整えられていくのであります。詩人は彼の叫びが神の耳に届くことだけを求めているのでありません。彼にとってもっとも大切なことは、神が彼の「願い」を見極め、彼の考えを「分かって」くださることです。魂が神に対して自らをあからさまに何の隠しだてもなく開かれる場合にのみ、真実と信頼の場が生まれ、神との語らいが意味深いものとなり、祈りを聞いてもらうことが可能となります。この詩人は神に対して自分の心を開き、その心の思いを何の隠し立てもせずに祈りました。そこから、彼と神との間に真実と信頼の場が生まれ広がっていきます。神との語らいが彼にとって意味深いものとなり、祈りが聞かれるとの深い確信へと導かれていきました。祈りにおいて、神に心を開き、その思いを神の前に吐露していくことがどれほど重要なことか、この詩人の祈りから教えられます。

彼は神を「わたしの王」と呼んでいます。イスラエルの王は司法事件において最終審の裁判官として判決を下さねばなりませんでした。彼が神を王とし呼びかけたのは、神の最終決定を呼び求めていたからかもしれません。

4節は、この詩が神殿での朝のささげ物とともに朗唱されたことを裏付けています。この詩人には、一方では、祈りが聞かれたという確信がありました。その確信が詩人の祈りを単なる人間的な嘆願の繰り返しから、清められた真の祈りに変えていきました。

祈りが聞かれるという確信を欠いては、わたしたちの祈りは、単なる嘆願の繰り返しから一歩も出ていくことができません。この確信こそ、祈りを清め真の祈りへと高めていくのです。

またもう一方で、祈りには、神を待ち望み、神との交わりを求めて常に畏れおののく姿勢が必要です。この詩人には、祈りが聞かれたという確信とともに、神を待ち望み、神との交わりを求めて常に畏れおののく信仰を持っていました。その両者の緊張関係の中で彼の祈りは真実な祈りとして神へと昇華していきます。

聖所に入り神に接近を許されるのは、神を信じる者たちだけです。だから、神を信じる者は、信じない者たちから自らを隔絶することが求められます。5-8節においては、祈り手が敵を山車(だし)にして独善に落ちいっているのではなく、神に対する一種の讃歌的な忠誠の告白がなされています。5-7節では、神は常に主語として表れます。それゆえここでは神が考察の中心点に立っています。ここで問題なのはむしろ神の本質であり、すべての悪と対決するその近づきがたい神の「聖」です。この告白の中で祈り手は、神が聖なる方であり、すべての神なき者たちの敵であることをはっきり描き出しています。彼はこの告白によって、神を信じない者たちについて神に嘆願する資格を心のうちにしっかりと基礎付けることができました。

5-7節は、9節に始まる個人的な特別な嘆願への包括的な前提となっています。祈り手が直面している神の聖こそ、彼の考えの出発点であります。そして、これがこの詩全体を理解する手掛かりです。神はご自身のために、御前にいかなる悪も思い上がりも存在することを許さず、罪人を滅ぼされるお方です。それゆえ祈る者は、彼の敵たちに下る最終決定をも、安心して神の御手に委ねることができます。たとえ現在が死の恐怖に包まれ、悪人たちの偽りと空しい悪意の脅威にさらされていようとも。

すべての悪を忌み嫌う聖なる神と出会うことによってはじめて、祈り手は自分自身が置かれている状況を自由な目で見つめることが可能となります。この詩篇の詩人は神殿の前庭で、神が臨在される聖所に顔を向け、畏れかしこみつつ神の御前に額(ぬか)づきます。彼は聖なる神の圧倒的な印象に打たれています。それゆえ、聖所におけるその告白は、独善に凝り固まった感情の披瀝ではありません。8節で彼が「深い慈しみをいただいて」と自らいっているように、それは神の恵みにより資格なくして与えられた贈り物なのです。彼は感謝とへり下りとをもって、この恵みに連なることを許されているのです。神への畏れをもって、神の高さと人間の不完全さとの間に横たわる本質的な隔たりについてはっきりと認識することが、旧約聖書において、人間と神との交わりにおけるすべての馴れ馴れしい生意気な態度を排除するために不可欠なものとして語られています。神への畏れは、その根底において人間がなすわざではなく、神の啓示によってもたらされるものであり、それはどこまでも神の恵みの贈り物です。

このことを知ってこの詩人ははじめて自分の願いを心おきなく神に述べることができました。9節において、彼はまず神の導きを求め、神の御前における彼の歩みを確かなものにしようとしています。詩人は神の恵みに浴することによって、自分が神を所有しているなどと自負したり、他人に対して高慢になったり、不正な態度を取る危険性が自分自身の心の中にあることをわきまえ知りました。彼は神の義に導かれることによって、自分自身が真っ直ぐな神の道から逸れない場合にのみ、敵に対する神の判決を要求する資格があることを知りました。

そのことを知らされた彼の戦いは真理の戦いであります。それは、10節における敵たちの特徴の描写によって明らかにされています。この詩人は、神を畏れない人間の不真実な心が喉元まで避けた墓穴のように、密かな欲望のうちに他人の破滅を企み、その滑らかな舌を用いて友情をへつらうが、決して信用が置けないことを知っています。彼は人間のあいだにはびこる、生命を破壊する恐るべき力の正体を知り抜いています。だが彼は同時に、この力が神の前にいつまでも存続しえないことも知っています。彼は最終的な神の審判を信じています。それゆえ、神に、審き主としての決定を乞い求めます。神を信じない敵たちの排斥を乞い求めます。それは、彼が単にそれらの敵の脅迫による苦しみにそれ以上耐えきれないと感じているからでありません。彼にとって大切なのは、神そのものです。すべての悪に対する神の力の勝利の出現です。これが祭儀における審きの思想の本質です。神への信仰を実際に放棄したくないのなら、神を信ずる者には、最終的な決定において「あれかこれか」を突き詰める真剣さがどうしても必要とされます。

この決定が下されたとき、迫害の重圧は去ります。神を信ずる者の心は喜びと感謝に溢れます。だが、決定的な出来事が生ずる前にそうした状況を先取りし、まだ見てはいないが信じている事実を確信して生きるところに、聖書の信仰の独自性があります。Iぺテロ1:8において「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今は見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています」とキリストへの信仰の独自性が歌われていますが、この詩篇の詩人は、ここで同じ信仰を示しています。彼は神を避け所とし、神を信頼することによって、自分が神に守られていることを知り、神の祝福を確信することが許され、いかなる困難に直面しても神の恵みのうちにあって、人の目には見えない生命の冠をかしらに戴いています。

この詩は、最後に、神そのものへの喜びが全体を隈なく照らし出し、祈り手が人間の争いの苦境と重圧の中から、ゆったりとした自由な神への信頼と愛に高められていく道程を歌い上げています。この詩人が問題にしていますのは、どこまでも神の力と勝利です。彼が礼拝の場で個人的に祈り求めている内容は同時に信仰共同体全体の関心事であります。彼はそのことを代表者として苦しみつつ祈ってきたのです。わたしたちもまた、礼拝の場で祈る祈りはたとえ個人的な嘆願であったとしても、そういう代表者としての祈りとなるという重大な事実に目を絶えず開き、神の決定を祈り求めねばなりません。

旧約聖書講解