エゼキエル書講解

10.エゼキエル書12章1-28節『捕囚のしるし』

エゼキエルを預言者に任命する主の言葉は、「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす」(2章3,4節)、というものでありました。12章には、そのように強情で「反逆の家」となったイスラエルに行った象徴行為と告げた言葉とが記されています。12章は、内容的には、三つに分かれています。第一は、1-16節で、前586年におけるバビロン捕囚を示す象徴行動とその意味を明らかにする言葉が記されています。第二は、17-20節で、破局後のエルサレムの荒廃について述べられています。第三は、21節以下で、エゼキエルを真の預言者であることを認めようとしない捕囚の民の反逆に対する、エゼキエルの反論が記されています。これら三つの出来事は、時間的にも、語られたときの状況も同じではなかったと考えられますが、捕囚の原因を「民の反逆」にあることを明らかにする意図の下に編集されて、このように配置されたと考えられます。

エゼキエルは、示された幻の体験を捕囚の民に語りましたが、「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」(22節)といって、それを信じようとしない民の反逆にあいました。それゆえ、主は再び一つの象徴行為を行うようエゼキエルに命じました。それは、「見る目を持っていながら見ず、聞く耳を持っていながら聞かない」(2節)反逆の民に下される主の審判を啓示する象徴行動でありました。エゼキエルが行った行動を記す3-9節は、イスラエルの民が捕囚にされることを明らかにしています。この象徴行為の契機は、ユダとイスラエル、そして捕囚の民も、現実に起こると警告された事態に対して目を閉ざし、意図的にそれを知らないかのように過ごし、偽りの平安を享受しようと努めた、彼らの実際上の無知にありました。エゼキエル自身は、「わたしは、主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた」(11章25節)のですから、彼らは、その恐るべき将来のことに関し、まったく無知であったわけではありません。しかし、見ても見ず、聞いても聞かない彼らの反抗を打破するために、エゼキエルは幻に代わる新たな任務を行うことを主から命じられて、このような象徴行為を行っているのであります。

預言者が直面する宣教の困難さは、根本的には、神と民との間にある交わりが障害にさらされていることによって引き起こされます。イスラエルにおいて、神と民との交わりは、決して直接的ではなく、預言者や祭司の仲保的役割を通して与えられます。特に、預言者の言葉や幻、象徴行動は、それ自体が神の言葉としての任務を帯びています。そこには、預言者を通して示される神の言葉を聞くまいとする民の強情さ、根本的不信仰の問題が横たわっています。その心の態度が、聞く能力を失わせることになります(イザヤ6:9以下、エレミヤ5:21)。人はそうすることによって、十字架の言葉も、神によってなされた歴史における救済行為も見えなくなります(申命記9:2-3)。その結果、捕囚における災いの原因と意味も見えなくなってしまいます(イザヤ42:18以下)。特に、「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか、この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった」(イザヤ書42:24)という第二イザヤの言葉を想起すべきでしょう。見ることも、聞くこともしないのは、バビロンでの聴衆が、預言者の示すことを目で見ざるを得ないのに、反抗して見るのを抑えるという具体的な事実と関連して述べられています。12章には、7回「彼らの目の前で」という言葉が繰り返され、彼らの眼前で起こっていることを、弁解の余地のないように余すところなく、エゼキエルは告げています。それは、エルサレムで起こる破局と捕囚が、バビロンの地にある自分たちとかかわりのないことではなく、なぜ自分たちは現在の惨めさを経験しなければならないか、ということの答えを見出し、主に在る希望ある新しい未来に向かわせるための言葉として語られています。

「都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。」(列王記下25章4-7節)

12章のエゼキエルの象徴行動が明らかにしているのは、この事態です。エゼキエルが穿つ壁の裂け目(5節)は、捕囚民が外に連れ出される都の城壁の破れ目を表わし、頭巾をかぶって顔を覆う(6節)のは、敗北した母国の光景を見ないためです。ゼデキヤ王の悲劇的運命は、主の御業を見ようとしない王と民の現実を象徴するような出来事としてここに記されています(13節)。ゼデキヤは、破られた城壁の一角から逃亡を試みました、エリコの荒れ地でバビロン軍に捕らえられ、リブラに連れて行かれ、そこで裁きを受け、彼の王子たちは彼が見ている目の前で殺され、その直後に、彼の両眼はつぶされ、足かせをはめられて、盲目のままバビロンに捕囚とされました。主の御業を洞察する目を失った王の目は、あっても不要な存在となっています。そのように主に背く民の代表として、この悲惨な裁きを経験したことを、預言者は明らかにしています。そして、主に従わない民は諸国に散らされ、その裁きを通して、「わたしが主なる神であることを知るようになる」(15節)と告げています。神の戒めへの不従順を通して、神が神として臨在されることを知ることは、実に悲惨なことですが、そこには希望も語られています。裁きの現実の中で神を知ることは、裁きの言葉を聞かなかった自分たちの悲惨の原因を洞察し、悔い改めへ導く、主の救いの方法であるからです。その悲惨の中で主を知り、主に立ち帰り、散らされたその場所で、そこにも居ましたもう主に目を開き、耳を開いて、新しく聞くものとなるなら、主は再び、その懐で憩うことができるように恵み、赦してくださる、という希望の光が示されているからです。

そして、この悲惨な現実を報告するこの出来事の中に、さらにもう一つの希望が語られています。それは、「しかし、わたしは彼らの中から少数の人々を残し、剣と飢えと疫病から守る。彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」(16節)、という言葉です。主は、その裁きの中でもわずかなものを残されます。それは、「彼らが自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせるためである」、とその理由が述べられています。彼らは、その悲惨が、バビロンという強国によってもたらされたのではなく、自分たちの罪にその究極の原因があり、その罪をさばく主によってもたらされたものであることを知り、その証人として、散らされたところにおいて証言することによって、「彼らは、わたしが主であることを知るようになる」といわれています。それは、主が歴史を支配し、現在の悲惨の中にもわたしが歴史の主として責任を持ち、あなたが悔い改め、主に立ち帰るなら、その救いの導きを確証させる言葉として語られています。だから、今、捕囚とされて散らされた民がなすべき第一のことは、「自分たちの行った忌まわしいすべてのことを、行く先々の国の中で語り聞かせる」ことです。それは単に苦しみの現実を語ることではなく、主の言葉に背いて生きていたために起こった事実を認めて、人々に向かって、神に立ち返るよう招くために語る言葉です。つまり、そこで本当に目が開かれるという体験を彼らはすることができるのです。

そのことが真実に現実に行われるまで、つまり、自分の胸を打ちたたき、自分の心を開き、自分の意志でその悔い改めを表わすまで、主はその悲惨な現実をそのままにされることを示すという意味で、12-20節までのエルサレムの荒廃の出来事が報告されています。エゼキエルが主に命じられて行った「震えながらパンを食べ、恐れ、おびえながら水を飲む」という行為は、それほどまでに精神を蝕む悲惨として示されています。滅びるのはネブカドネツァルによる暴力の力の結果ではなく、エルサレムの住民自身の暴力的な生き方の結果であり、それが自らを荒廃させた根本的な原因であったことを、その荒廃の現実を通して主は知らしめられます。

しかし、このエゼキエルの言葉を捕囚の民はどう受け止めていたか、その問題が21節以下において明らかにされています。エレミヤと同じようにエゼキエルもまた、自分の聴衆から真の預言者であることを疑われました。「日々は長引くが、幻はすべて消えうせる」(22節)ということわざを用いて民はエゼキエルに反抗しました。

預言の言葉が実現するまでに、時に長い時間が要することがあります。それは、時に主の忍耐を示す場合もありますが、わたしたちの信仰を問うために、その実現が引き伸ばされる場合もあります。その引き伸ばしは、語る者の信仰も、聞く者の信仰も問う形でなされます。ある段階では、神の現実性は一応聞かれますが、次に、それを自分の都合で聞くという人の手が加えられ、真実に聞こうとしないということが起こります。偽預言者の解釈によって、災いの軽減がなされ、その心地よい言葉によって、その幻を忘れ、人々はついにそれを心から消し去ります。

しかし、引き伸ばされるから、その幻が真実でないということはできないことを、ここで改めて明らかにするために、主ご自身が「『わたしはこのことわざをやめさせる。彼らは再びイスラエルで、このことわざを用いることはない』と語られます。そして、エゼキエルは、『その日は近く、幻はすべて実現する。』」(23節)「それは実現され、もはや、引き延ばされることはない。反逆の家よ、お前たちの生きている時代に、わたしは自分の語ることを実行する」(25節)、と主なる神のことばを告げています。

神にあっては、語ることと実現することは一つです。その言葉の成就という点で、時の遅延という問題はあるにしても、人はそれを疑ってはならず、それに目を閉ざすことも、耳を閉ざすこともしてはならないし、そうすることは不可能です。

主は、「わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される」、と言われます。この主の言葉は、常に現在的な言葉として語られています。神の言葉を、今、その場所で、わたしに語りかけられたことばとして聞くことが求められています。それを真剣に受け止めることを、神はわたしたちに要求されます。

旧約聖書講解