イザヤ書講解

50.イザヤ書49章14-20節『神の手のひら』

第二イザヤの告知全体の開始点は、イスラエルの残りの者の落胆と絶望です。イスラエルは神から見捨てられ、忘れられたと思っています。まさに、捕囚時代の末期、イスラエルの人々の心にわだかまっていた断念と絶望の声が14節において次のように表明されています。

シオンは言う。
主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。

ここでシオンと呼ばれているのは、前587年バビロンの大軍に包囲され、陥落したエルサレムのことです。捕囚としてバビロンに連れ去られ、40年を越えたイスラエルの人々のことでもあります。40年経ってもそのショックは癒えずに残っていました。それが、そこから立ち上がれないでいる彼らが口にする祈りの言葉でもあったのです。なんという不遜な、と思える祈りの言葉です。だからといって、彼らは全く主への信仰を失っていたわけではありません。しかし、過去に引きずられ、その信仰は後ろ向きになっていたのです。捕囚の地で、前途に希望が持てないので、ため息をつきながらその日暮らしをして生きていたのです。神を信じていても、神が未来を切り開かれる力を持っておられるという事実を見ようとしない信仰、それは未来を断念する信仰でしかありません。

哀歌に歌われている民は、第二イザヤが直面した民といわば同じ信仰を表明しています。

あなたは激しく憤り
わたしたちをまったく見捨てられました。(哀歌5章22節)

この哀歌の最後言葉もまた、イスラエルの当時の精神状況を物語っています。しかし、この哀歌の原文は疑問文で終わっています。「それともわたしたちをまったく見捨てられたのですか。」と疑問文で読むほうが、祈りの言葉としては分りやすいでしょう。いずれにせよその信仰が、前へ向かわず、後ろ向きであることに変わりありません。それは、40章27節において述べられた次の叫び声の背後にあるのと同じ問題が横たわっています。

わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。

おそらくイスラエルは、礼拝の場でこのような嘆きの祈りを繰り返していたのでしょう。第二イザヤは、この逆向きの敬虔に対抗しているのです。彼は、このように後ろを向いて生きるイスラエルに対して、40章26節では、絶望した者のまなざしを星群に向け、また星群を通じて創造者に向けました。

目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。
それらを数えて、引き出された方
それぞれの名を呼ばれる方の
力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

そして、この49章15節では、母とその子に向けています。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。

イスラエルを贖う方は、天地を造られた創造者です。この二つを一つに結びつけて事柄を理解するのが第二イザヤの信仰です。広大無辺に広がる宇宙も神の創造された世界であり、神はその全能の力で今も支配しておられる。その計り知れない神の恵みの力を仰ぎ見るように民を促した第二イザヤは、今度は、民の存在は、母親の懐に抱かれてあることに目を向けさせます。あの遠く輝く星の遠さではなく、いつも身近にあって子を世話する母親の慈しみ深さへと民の思いを導き、「たとえ、女たちが忘れようとも」といって、神の愛と慈しみは母親を越える、それ以上のものであることを示します。第二イザヤと哀歌に歌われている状況は、非常に近く、その理解に役立ちます。哀歌2章20節には、次のような驚くべき言葉が記されています。

主よ、目を留めてよく見てください。
これほど懲らしめられた者がありましょうか。
女がその胎の実を
育てた子を食い物にしているのです。
祭司や預言者が
主の聖所で殺されているのです。

この愛歌で歌われているのは、破壊された都エルサレムについての嘆きです。そこで起こったおぞましい光景のひとつが、女が生き延びるために自分がお腹を痛めて産んだ子をなべで煮て食べたというものです。この哀歌を歌った人物は、こんなことがあってはならないという激しい憤り、悲しみを込めてこの言葉を述べています。それは、「たとえ、女たちが忘れようとも」というものよりももっと恐ろしい光景です。捕囚の民が哀歌にうたわれたその光景を見たのかどうかは分りません。第二イザヤがそれを知っていたのかどうかも分りません。しかし、生きることの限界に立たされた人間が、そのような行動を取る現実を知るものとして、彼らはただそれを嘆きという形でした表わすしかなかった。そして、その現実を越えることができなかったのです。

しかし、第二イザヤは、「たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」という神を指し示します。そして、16節において、

見よ、わたしはあなたを
わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。

といわれる神を指し示します。陶器師は、陶器の表面に模様を彫り刻み、それを焼き上げます。まるで愛人の名を手のひらに書きつけ、握りしめるかのように、神はその大能の手の、その手のひらというやわらかいところに、あなたの名前をしっかりと書いて握りしめてくださるというのです。人は自己保身のために他人を犠牲にして捨てることがあります。親でさえ子を捨てることさえあります。捨てたいと思わなくても、そうせざるを得ない現実に立たされて、そのようにした心の痛みを引きずりながら生きる親の心もまた悲しいのです。どちらも生きながらえても心は痛み、孤独なのです。しかしそれでもあなたは孤独でありません。神はそういわれるのです。なぜ、そう言えるのか。わたしは、あなたの名をわたしの手のひらに刻み、あなたの全存在を引き受けて、あなたを守るといわれるからです。わたしたちは、神の手のひらの中に永遠に握りしめられているのです。しかも、それは両の手のひらに、その手から抜け落ちないようにしっかりと握り締められているのです。

ここまで語り、第二イザヤは、シオンへの帰還とその復興の時が速やかに来ることを17節で述べた後、18節において、「目を上げて、見渡すがよい。」と民に向かって要請しています。バビロンの村で失望落胆している者に、第二イザヤは何を見よ、というのでしょう。そう呼びかけられてみても、現実にはまだ、何も見えないのです。第二イザヤはそのことが少しも話題になり得ない状況で、故国帰還の幻(ヴィジョン)に関心を示すように要請しているのです。

しかし、未来に関するそのような幻は、第二イザヤではいつも二次的なものでしかありません。第一義的で本来的なのは、民の運命を転換させる神の決定です(15-16節)。そして神の救いは、イスラエルを越えて、しかしイスラエルにおいて、世界に及ぶ恵みとして表わされます。そのことを告げる言葉が、18節bです。

「彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。」

この神の誓いは、多くの国々から帰還者(12節)が新しいイスラエルを飾るであろう、というものであります。それは、「わたしは生きている」と言われる。現実を支配する生ける主の力の働きによって、それが実現することが語られています。

あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
花嫁の帯のように結ぶであろう。

この言葉が表わす意味は、それは帰還するイスラエルの姿が、他者に対して美しく、華やかで、また気品を人に与えるものである、ということです。シオンに帰還者が満ち溢れることによって、イスラエルは他の人々に対して栄誉を取り戻す、という意味で言われています。

それは、「彼らを住まわせるには狭くなる」(19節)、「場所が狭すぎます、住む所を与えてください」(20節)というほどまでに、破壊され、廃墟となっていた都エルサレムの栄える姿として語られています。

神の手のひらに、イスラエルはその名を刻まれ、愛されたものとして握りしめられています。そして神は、わたしたちを同じようにその名を刻み、神に愛されたものとして握りしめてくださっています。なぜなら、主イエスは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(ヨハネ10:3)「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(同10:14)といわれるからです。神の手のひらに名を刻まれて覚えられ、導かれる、そのような神の導きの確かさだけが、私たちのゆるぎない希望となりえるものです。神が切り開いてくださる終末の希望を、「目を上げて、見渡すがよい」と信仰をもって見つめ、そして、その望みの中で今を生きよといわれるのです。

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