エレミヤ書講解

6.エレミヤ書3章12-18節『イスラエルの立ち帰り』

3章において主題となっているのは主への民の立ち帰りです。エレミヤはここで「立ち帰り」(シューブ)を様々な意味をこめて語っています。この語は、「離反」と「立ち帰り」、ヤハウェに対する民の悔い改めや、また自分の民に対するヤハウェの思い返し、等に用いられています。エレミヤは、民の存立が神との真の生命の関係次第で立ちもし、倒れもするということを知っているが故に、民のこの生命の問題に様々な側面から繰り返し語っています。

神に背き、アッシリアやエジプトの力に依存していることは、神の民としてのイスラエルの存立の意味を失うことであるとエレミヤは語っています。エレミヤは北の部族(イスラエル)に向かって神に立ち帰ることを呼びかけています。

行け、これらの言葉をもって北に呼びかけよ。
背信の女イスラエルよ、立ち帰れと
主は言われる。
わたしはお前に怒りの顔を向けない。
わたしは慈しみ深く
とこしえに怒り続ける者ではないと
主は言われる。(12節)

エレミヤが「これらの言葉をもって北に呼びかけよ」と主から託されたのは、赦しと招きの言葉を語ることです。5節では、偽りの悔い改めを批判する言葉の中に、神は限りなく怒り続けることはないというイスラエルの安易な言葉が指摘されていましたが、ここでは主ご自身が、「わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではない」と明言しておられます。しかしそれには、罪を素直に認めることが必要であるといわれています。

ただ、お前の犯した罪を認めよ。
お前は、お前の主なる神に背き
どこにでも茂る木があれば、その下で
他国の男たちと乱れた行いをし
わたしの声に聞き従わなかったと
主は言われる。(13節)

この悔い改めの呼びかけには変わらない神の愛が示されています。しかしそうである故に、神の慈しみを知りながら、悪とされることに留まることは赦しがたい罪です。罪を認めるということは、それらから離れ、ただ主にのみ立ち帰ることを意味します。

神はまず、ご自身がいつまでも怒り続けるものでないと赦しを語って上で、罪を認め、悔い改めよと語る、この順序に注目しましょう。神の変わらない愛を知ることによって人は本当に平安にされ、罪を正直に告白し、心から神に立ち帰ることができるのです。怒りの眼差しでなく、慈しみに満ちた眼差しを注いで、神はイスラエルに罪の告白を求めています。

そして14-18節においては、イスラエルに向けられた悔い改めの呼びかけに続く、立ち帰りの約束が語られています。民は立ち帰れと招かれますが、その招きを受けた民は既に立ち帰ることが約束として語られています。この驚くべき神の恵みを聞き逃さないことが大切です。ここでは12節の呼びかけを繰り返しながらもイスラエルとユダとを一つに統合する未来に向けての預言が語られています。

16節において、「その日には」と記されているように、エレミヤは明らかに後の時代のことを見つめて語っています。この際、神殿祭司が保管していた契約の箱が、申命記的宗教改革以前の時代にイスラエルとユダの人々のあいだで議論の的になっていた、という可能性について考慮される必要があります。16節後半の「人々はもはや、主の契約の箱について語らず、心に浮かべることも、思い起こすこともない。」ということばによって、エレミヤは契約の箱についてのその論議の無意味なことを明らかにします。何故それが無意味かというと、「その日には」契約の箱ではなく、エルサレム自体がヤハウェの臨在を保証する「主の王座」になるからです。エレミヤはこれらの言葉を契約祭儀の中で形作られてきた諸観念を前提にしながら語っています。

14節の立ち帰りの要求は、12節を想起させます。また実際12節同様北のイスラエルの人々に向けられています。そして、この要求がなされる根拠は、神は全イスラエルを支配される主である、ということにあります。「わたしこそあなたたちの主である」(バアルティー)という語は、バアル宗教に対する明白な戦線布告です。これによって、神として権威を持つのはただヤハウェのみである、ということが強調されています。

そして、14節後半において「一つの町から一人、一つの氏族から二人」といって、シオンの丘にある契約の聖所にイスラエルの人々が巡礼に上ってくる姿が描かれています。ヤハウェに忠実なわずかばかりの人に対してなされる神の驚くべき御業がこうして描かれています。それは、すべて神の恵みとしてなされることが示されています。この神の恵みの力は、わずか一人でもヤハウェに忠実なまことの民を残すし、そのわずかにひとりでも残る者があれば、その者に発揮されるものであることが示されています。神はそのような破壊の真っ直中において残されたったひとりを救いの歴史の新たな出発として選ばれるお方です。歴史の破局の中から何故繰り返し神への信仰が新たな熱情と未来への展望をもって起こったのか、という理由は、聖書に表されているこの「残りの者」の思想からのみ説明することが出来ます。イスラエルとユダに見られた背信は、神とイスラエルとの間に結ばれた契約から見れば、法的にはいずれも滅び去って当然で、いかなる意味でも弁解の余地も救いの可能性も残っていません。エレミヤはそのことを鋭く洞察していました。しかし、同時にこの滅び去って当然の民の中に「残りの者」を神が残し、その一人をもって新たなる救いの歴史の出発点として選んでおられるという不変の神の恵みの意思をも、エレミヤは鋭く洞察していました。

どの民族もそれぞれ自分たちに見合った指導者しか持たないものです。民の愚かさと指導者の愚かさは相関関係に在ります。それは、まことの神の前に互いを垂直的に裁く「規範」たる「みことば」を持たない者が辿る必然であります。しかし、この規範を与えられた契約の民イスラエルも、この与えられた規範を省みず、契約を破り、他の国々の民と同じ道を辿りました。神の意思に逆らって「自ら王を立て」(ホセア8:4)ました。その結果は自分のことしか考えない王のために苦しめられます。その結末は、歴史の中に表される正当で必然的な神の審きとして表わされました。そうであるなら、その後おとずれる新しい救済の時代の特徴は、15節に示されるように、神ご自身が責任をもって、御心にかなう統治をする英知を具えた「牧者」を民にお与えになる、ということになります。

エレミヤの眼差しは未来に向けてはるか彼方に注がれています。世界創造の際に神の祝福が「生めよ増えよ」という言葉で語られたように、神の臨在と神の契約に基づく救いの恵みの確実さを、イスラエルはそのように眼に見える形で見ることができると16節において語られています。「その日」、ヤハウェの臨在をしめす象徴であった「主の契約の箱」はもはや不要となるといわれます。列王記上12章は、王国の分裂の出来事を記していますが、26節以下において、王国分裂の際に契約の箱がエルサレムの王の神殿に安置されていたために、ヤロブアムによって新たに建立された北イスラエル王国は、これと対抗するために、カナン的な宗教祭儀に傾き、金の子牛を造り、「契約の箱」を中心とした南ユダ王国と競合する関係にはいったことを明らかにしています。エレミヤ書のこの文脈においては、「契約の箱」がヤハウェ契約の再興と南北両国の祭儀的統一の計画の妨げになっていたことを暗示しているように思われます。

エレミヤは、神の臨在を、物的な象徴でしかない「契約の箱」と結びつけないと考えられないという考えそのものを否定しています。エレミヤは、ヤハウェではなく「契約の箱」の存在だけが礼拝祭儀の統一の根本問題と見られるなら、「契約の箱」もまた偶像化され、信仰の物的保証を与えることになることを警戒し、それを厳しく戒めています。

17節は、エルサレムにおいては、「契約の箱」ではなく、「主の御名」によって臨在される神が、ご自身を啓示されるので、「諸国の民は皆」エルサレムにこぞって神を礼拝しなければならない、と呼びかけられています。こうして、ヤハウェの臨在が祭儀的な象徴物に依存する考えが見事に否定されています。しかし、エルサレムという場所自体もまた聖地として神聖視していくこともできません。なぜなら、エルサレムが特別重要な意義を持つのは、その場所自体の持つ特別な聖性によるのでなく、そこに、主が「御名」を啓示されると約束されていることによります。この約束に基づいて神がエルサレムに臨在されるという事実こそがエルサレムを全世界にとって意義あるものとしているのです。

そして、18節において、エレミヤはユダの家もイスラエルの家と合流して帰ってくると語ります。こうして全契約共同体がヤハウェに立ち帰る姿を、エレミヤは描いています。その立ち帰りがまずイスラエルにおいてなされ、「彼らは再び、かたくなで悪い心に従って歩むことをしなく」なった後、ユダがイスラエルと再び「合流」しひとつとなって、主の下に共に帰ってくる、といわれています。この言葉は、ユダが「北の国」(バビロン)に捕囚とされることが前提されています。それは、エレミヤが若くして既に「北の国」へのユダの捕囚の可能性を予想していたということができます。しかし、この未来像においてもエレミヤは、イスラエルとユダが元来一つであるという契約思想に立っています。

王国の分裂と両王国の滅亡の原因はいずれも民の罪にあります。しかし、この二つの王国の再統一とエルサレムへの帰還への可能性は、彼らの背信の罪にも関わらず主の救いの意思が不変であり、なおエルサレムにおいて御名を啓示し、先ず背信のイスラエルに、そしてユダにも共に救いに与からせようとする招きの中にのみ見出すことができます。彼らはこの招きの言葉の中にあらわされる主の恵みに眼を開くことが求められたのです。信仰とはこの差し出される無償の神の恵みに眼を開き、神様有り難うといって、恵みを恵みとして受け取ることです。神はその信仰を持って応答するものに限りない恵みを注がれるお方であることを、エレミヤはこれらの言葉において語っています。

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