哀歌講解

4.哀歌3章40-66節『恐れるなと言ってください』

哀歌の第3歌は、第1、2歌同様紀元前587年のユダ王国の破局を経験した民の嘆きの歌です。しかし、この第3歌は、大破局を経験した個人がその絶望的な困窮に直面させた主に、「あいつが、やつが」といって敵意を抱いていたのに、生きる力が絶え果てた時、主を待ち望みました。そうして、主が自分を覚えてくださっていることを知るに至ります。絶望の淵にある自分を屈み込んで抱きかかえ、慈しみ哀れんでくださる御手を見て、この哀歌の詩人は希望を見出し、若者に向かって、重荷を負わせる主に希望を抱いて生きることを教えました。31節において、「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」と主への信頼を歌っています。

そして、この40節からは、それらの教示に立って、捕囚の地で打ちのめされ、隷従されている民に向かって、主に立ち帰り悔い改めるよう呼びかけています。主に立ち返ることは、失われていた主への祈りを、手を挙げ心を捧げて再び始めることです。この哀歌の作者自身、絶望の時、主への祈りを忘れていました。むしろ、自分の苦しみは主によってもたらされたものであるゆえ、主に向かって怒りとのろいの言葉を口にしていたのです。主のことを、「あいつは、やつは」といって眼中においていませんでした。しかし、苦渋と欠乏の極みで生きる力が絶え果てたと思ったその時に、彼は主に望みを置くことへの転換を図かりました。現在の絶望の原因が主にあると認識するものは、新たな希望への転換も主の下にあるという信仰の認識へと至ります。そうして神へ祈り向かうのです。彼は絶望の中でその大切さを学んだのです。

だから彼は、ここで捕囚に苦しむ同胞の民に向かって、主への立ち帰りを勧めます。主に立ち返ることを具体的な祈りにおいて表すことを勧めます。しかし、「わたしたちは」といって、彼は民と連帯してその事を語ります。その祈りは主の前に犯した罪の告白から始まります。そうすることによって、現在の苦しみが主に対する罪への審判としてあることを、いよいよ鮮やかに認識します。しかし、この罪に対する審きとしての捕囚の運命は、あまりにも長く厳しいのです。「災いも、幸いも、いと高き神の命令によるものではないか」と38節において語る作者は、民に向かって、その災いをじっと耐え忍び、自己吟味すべきであり、主の許しが未だないことを認めるべきであると告げています。

だから、捕囚の運命にあるイスラエルにとっては、神の前に自らの罪責を告白し、自らの悲しみを訴える以外に、よき未来への展望は開かれないのです。イスラエルにとって嘆きの祈りは、未来への希望につながっています。主の赦しなくして現在の嘆きの状況にいかなる希望も持てません。しかし、イスラエルの背きの罪があまりにも大きいので、主が赦そうとするのを妨げてしまっていることを、イスラエルはその嘆きの中でますます知らされます。イスラエルは不従順の結末を、神の爆発する怒りの中に感じ取ったのです。その不従順が、主を民の敵、虐殺者とならしめたのです。この激怒する神のみもとには、祈りは届かなかったのです。44節で、「あなたは雲の中に御自分をとざし/どんな祈りもさえぎられます」と歌われているように、神は天の聖所にあって雲の背後に隠れたままでありました。

神はイスラエルを諸国の民の中に見捨てていたのです。だから、敵はイスラエルを蹂躙し続けたのです。この哀歌の詩人は、敵に打ち砕かれる民のために涙を流して祈ります。主がその現実に目を留めてくれるまで、涙を流し続け祈り続けると硬く決意しているのです。

そして、民への嘆きは、52節から(58節まで)、個人的な感謝の祈りへと転換いたします。52-54節において、感謝の歌は悲しみの報告で始まります。狩人に追い立てられる小鳥、落とし穴に追い込まれた野獣は、その落された穴の中に投げ込まれる石を避けることはできません。頭を越えるまで水を満たされて、生きることのできる者はいません。祈り手はそのような言葉でその絶望的な状況を強調します。この祈り手は自分が既に死んだも同然であり、水が満ちている大きな地下水槽の中で既に沈んでいると思ったのです。この祈りは破局の中にある者の祈りです。

「深い穴の底から/主よ、わたしは御名を呼びます」と言う祈りは、大破局を経験した者の祈りです。しかし、この祈りは既に感謝の祈りとしての響きを一杯に漂わせています。なぜなら、この祈り手は、生きる望みが絶えた時、主に望みを置き、主を呼び求めてその祈りが聞かれたのだということを、神に感謝しつつ、民に告白させているからです。

「呼び求めるわたしに近づき/恐れるなと言ってください」という哀歌の詩人の言葉は、出エジプト記14章13-14節のモーセの言葉を想起させます。エジプトの奴隷の地から脱出したイスラエルは、エジプトのファラオの軍隊が背後から追いかけてくるのを必死になって逃れようとしていましたが、そうして逃げる彼らの前には、葦の海がその行く手をさえぎるように立ちはだかっていました。逃げ延びる望みを失い恐れ怖じ惑った民は、そのような事態に至らしめた指導者モーセをなじり始めました。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」(出エ14:11~12)といってモーセをなじりました。そして、モーセは、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と答えました。出エジプトの神は、生死に関わる争いに、イスラエルに代わって戦われる神です。モーセは逃れ場のない只中で、そのようなところからも救うことのできる神へのゆるぎない信仰を持つよう民に求めました。そして、この神はその危機の中からイスラエルを救いました。

その同じ神が、捕囚の地においても屈み込んでその民を哀れみ、「恐れるなと言って」助けることができるとの揺るぎ無い信仰をもって、この哀歌の詩人は、主がそう言ってくださるように祈ります。

破局の現実を希望ある未来に転換することができるのは、この破局をもたらした同じ神しかいません。「主よ、生死にかかわるこの争いを/わたしに代わって争い、命を贖ってください」と祈り、59節から、この祈りは敵対する者に対する復讐を求める祈りへと転換します。

ここに旧約における祈りの限界が明らかになります。死を乗り越える力と可能性は神において以外にないと旧約の信仰においても告白されていますが、その転換を敵が滅ぼされることにおいて実現するようにと祈ります。自分たちに向けられた主の怒りが敵に向けられて事態が逆転するのを祈り願います。しかしキリストは、生死の転換は最後まで神への信頼を持って、十字架の苦難を耐え忍ぶことによってなされる信仰の道において開かれることを明らかにしておられます。

しかしこの哀歌の作者もまた、最後まで恐れず静にして、主にある転換を待ち望む信仰をも指し示している点で、イエス・キリストへの信仰と希望を指し示す働きをしています。「呼び求めるわたしに近づき/恐れるなと言ってください。」(哀歌3:57)という祈りをもって、どのような危機に直面しても、主による希望への転換を待ち望む信仰を持ちたく思います。

旧約聖書講解