申命記講解

17.申命記18章1-22節『まことの神礼拝に関わる規定と職務』

申命記18章には、真の神礼拝にかかわる規定とその職務を担う人間の問題が取り上げられています。最初に、レビ人に関する規定(1-7節)、次に、イスラエルでは許されることのなかった占いについて取り上げられ(9-14節)、最後に、神の言葉に関わる預言者職について取り上げられています(15-22節)。

レビ人を祭司の部族と見なす申命記の見方は、主がアロンに、「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である」(民数記18:20)、という古い時代に遡る教えを受け継ぐものでありますが、6―8節は、祭儀の中央集中要求を前提した記述になっています。祭儀の中央集中化に伴い、地方聖所にいるレビ人の祭司のために、暮らしを支える必要が生じ、一般のレビ人も、中央聖所で、その兄弟たちに加わり、捧げものの中のレビ人の分を受け取る恩恵に浴すことができたことを明らかにしています。

9-14節の占いの実施は、イスラエルでは許されていなかったものです。この問題をめぐるイスラエルの信仰の戦いは、王国時代最初期に遡ります。10,11節の異教の習慣に携わる者は、誰であれ、主に対する忠節を裏切る根源的な罪であるという観点から、列挙され、厳しく断罪されています。「あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない」(13-14節)、という要求は、イスラエルの信仰の根本を表す特徴的なものです。この宗教理念は、倫理的・宗教的な完璧さをイスラエルに求めているのではなく、イスラエルが二心なく、他国の神々や口寄せなどによって、二股の保険をかけず、主なるヤハウエとの共同体関係を告白すべきことを教えています。異教習慣を取り入れる二心の信仰は、主の民の信仰を根本から破壊することになるからです。神が唯一であり、命と自然を支配されるお方であるという考えは、イスラエルの神、主が万物の創造者であるという信仰理解から生み出された、イスラエル宗教の独自なユニークな宗教思想です。

次に15-22節において、主は、イスラエルに対するコミュニケーションの全く別の可能性として、預言者の職務が開示されています。このように、申命記は、一方にそれぞれの占いの様式を置き、他方に預言者を対置しています。このきわめて単純な対置は、預言者による啓示の特異性に関する、イスラエルの長い省察の結果、イスラエルが何によって立つべきかを示すためになされた、教育的方法です。イスラエルは、神の言葉の啓示の担い手である預言者を持つことによって、神的な力や、神的な意思に参与しようとするあらゆる企て、占いやオカルト(心霊主義的)な多種多様な魔術信仰を退けることができたのです。

こうしてイスラエルは、全く別の可能性を開示されたのであります。それが預言者の職務を開示することでありました。申命記にとって、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(15節)という要求に示される、「モーセのような預言者」の出現は、イスラエルが神と全く直接的な関係になる、あらゆる職務に関わる問題でありました。

それゆえ、申命記は、この預言者の機能を、もっぱら彼がイスラエルに対する神の口であることを示しています。申命記の表象によれば、モーセその人のように、その職務に司る預言者は、神と人との間の執り成しをし、人の罪の身代わりとなって苦しみ、それだけでなく、身代わりとなって死ぬのであります。そのことは、「主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り、わたしがヨルダン川を渡ることも、あなたの神、主からあなたに嗣業として与えられる良い土地に入ることも決してない、と誓われた。 従って、わたしはヨルダン川を渡ることなくここで死ぬ。しかし、あなたたちは渡って行って、その良い土地を得る」(4;21―22),「主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。わたしは、主が激しく怒りに燃え、あなたたちを滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、わたしに耳を傾けてくださった。アロンに対しても、主は激しく怒って滅ぼそうとされたが、わたしはそのとき、アロンのためにも祈った。・・・」(9:18以下)、「わたしは、四十日四十夜、主の御前にひれ伏した。主があなたたちを滅ぼすと言われたからである。わたしはひれ伏して、主に祈って言った。『主なる神よ。あなたが大いなる御業をもって救い出し、力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。・・・彼らは、あなたが大いなる力と伸ばされた御腕をもって導き出されたあなたの嗣業の民です」(同25以下)、と告げるモーセの言葉に明らかにされています。

それゆえ、この預言者像は第二イザヤの苦難の僕とも接点があるのです。しかしながら、預言者の職務についてのはっきりした神の約束に関し、申命記記者は、典拠を示していません。申命記は、古い伝承を解釈するという方法で、自分の主張を擁護するという立場にとどまっています。申命記記者は、シナイの出来事に関する古い伝承を、イスラエルが直接神の声を聞くことを回避できるように、またモーセがそれを聞いて、イスラエルに聞いた内容を伝えるように、祈り求めた、と解釈しています。そして、主がこの祈りを聞きいれ、その結果、預言者による仲保の職務が成立した、というのです(5:24以下、出エ20:19以下を参照)。

申命記が語っている時代は、預言者の職務に関して、既に、雑多なそして悪しき経験を重ねていた時代です。預言者は、必ずしも常に、その正統性を主によって与えられた権能に基づかせることができない立場に立たされていました。預言者の法規定は、預言者が、もし自分に委託されなかったことを預言に混在させて、主の名によって預言するなら、ました他の神々の名において語る場合は、死に値すると警告しています。しかし申命記は、神聖な預言者と偽りの預言者を識別する、見聞違いのない基準を、聞き手の手に与えることができると信じています。神から委託されたと僭称した言葉は成就しないし、死に値するというのです(20節)。

しかし、申命記の記者は、これらの基準を安易に片づけ過ぎている、との批判現代の聖書研究者からなされています。危急の際に語った預言者の言葉の正当性の問題は、その預言者が告知した使信が成就する時まで、未決定のまま放置できるであろうか。それは、そう簡単に決定できる問題ではありません。エレミヤも、真正の預言か偽りの預言か、客観的基準を明示するのに苦労しています。偽りの平和の到来を告げる偽預言者ハナンヤとの対決において、「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(エレミヤ28:8-9)、と語り、さらに、「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ」、と述べ、主に逆らうものは死ななければならないという告知をし、ハナンヤはその告知通り死んでいます(同15-17節)。ここに主の民の命にかかわる預言者職を担う務めの重大さが示されています。

旧約聖書講解