詩編講解

69.詩編139篇19-24節『神の審きと導きを求める祈り』

この詩編139編の作者は、神の全知、遍在、全能を賛美の祈りの形において称えてきました。そのような賛美の祈りが続いている中で、最後に突然審きの祈りが入ってくることに唐突な感じがします。しかし、この祈りが旧約の祭儀の中でなされた祈りであることを考えると、審きの思想が祭儀伝承の中で深く根を下ろしていたのでありますから、それ自体は決して唐突ということはできません。むしろ、この詩人がなぜ神に逆らう者を滅ぼしてくださいと祈らねばならなかったかを知ることの方が大切であります。

賛美の祈りから審きの祈りへの突然の転換は、この詩人の信仰と内的に深く結びついているのであります。彼は、神を全知の方であり、何処にいても自分を守り導くことのできる遍在の神であり、すべての者の創造者として、その全能の力を変わりなく保持しておられる全能の神であると固く信じているのであります。その彼の信仰からすれば、神無き者の存在というのは、信じがたい一つの謎であり、その謎は、その様な者の存在が滅ぼされることによって実際に解決されると思われたからであります。

しかし、これは単純な人間の復讐心からくる考えでしょうか。わたしたちがこのことを理解するためには、旧約聖書における神と民の契約における交わりの在り方を考える必要があります。その交わりは、祭儀という場において守られました。そこでは神の前に罪を犯した者は、その罪を清めるための清めの期間を過ぎないと、祭儀の交わりに加われなかったという、祭儀に対する厳粛厳正な態度から見るものの見方があります。

罪を憎み、罪から遠ざかることは、何処までも聖なる神に対する真実な畏れに相応しい礼拝する者の態度でありました。彼はこの潔白な態度から、神に敵する者の問題を見ていたのであります。彼は、神のために、神について悪しきことを語り、その聖なる御名を汚し、流血を謀る者を憎んでいたのであります。彼は、その者が自分に敵しているからという単純な理由で憎んでいたのではありません。

この詩人は、彼らが神の敵であるがゆえに自分の敵であると認識したのであります。神の聖を汚されることに対する激しい憤りは、それだけ彼が深くその大切さを認識していたことを証しするものであります。

しかし、彼がこの点で旧約聖書の伝統を一歩も超えることができなかったこともまた、知らされるのであります。神に逆らう者の存在の中に神の測りがたき意思のあるのを、その神の前における沈黙の深い意義を、彼は洞察することができませんでした。「わたしの思いは人の思いとは異なる」という神の寛容と憐れみを彼は知ることができなかったのであります。神の恵みは、その偉大な全知、遍在、全能性と同様、あらゆる人間的尺度を超えて存在しているのであります。

主イエスが十字架上であらわされた神の憐れみに至る道は、旧約の祭儀の伝統にしか生きられなかったこの詩人にとっては、未だ理解することのできないものでありました。

それでも彼は、自分の限界と不確かさを知っていました。彼は神が全知の方であると知っていました。しかしそのことは、彼が自分についてすべてを知り、過ちなく生きているということを意味しているのではありません。

むしろ、彼は、自分が如何に不完全で、過ちを犯す人間であるかどうかを謙遜に見つめることのできる人間でありました。彼は、その不完全で過ち多い人間であることを、丸ごと全知の神に知ってもらい、究めてもらいたかったのであります。その神の知恵で相応しい試みを受け、自分の悩みを主なる神に知ってもらいたかったのであります。

この詩人は、神の全知の中に委ねきり、信頼を寄せて生きていきたいのであります。詩人の心を探り究める神は、彼が悩みの中にあるのか、あるいは不信の道にあるのか、それとも、とこしえに至る道を歩んでいるのかを、知っておられるということを知らされたのであります。

そして、彼は、信頼を持って神に願いつつ、次の結論を下しているのであります。
人は、神の知恵と働きとの中に委ねきって生きるならば、人間には神の前に自分を誇り、安住できるような業績が、誰にもないことを知るに至る、ということを。そして、とこしえの道は神の御手にのみあるので、全知、遍在、全能の神に対する唯一のあるべき態度は、信仰と信頼しかないということを知るに至る、ということを。

全知の神の導きこそ、この詩人の拠り所なのであります。

旧約聖書講解