ハバクク書講解

1.ハバクク書1章1-4節『嘆きの預言者ハバクク』

①預言者ハバククとその時代背景

預言者ハバククの人物と時代については正確なところ何もわかっていない。本書の表題に預言者(ナービー)ハバククとあるが、旧約聖書には彼の名はここにだけ記され、その名の起源についても何もわかっていない。アラビヤ語では「こびと」という意味があるがそれも定かでない。ユダヤ教の伝説(聖書外典)などでは、ハバククはシュネムの女の子供(列王下4:17-37)とされている。ダニエル書のギリシャ語続編(「ベルと竜」の部分)ではユダヤの預言者ハバククについて書かれている。しかし、正典には、彼の名は本書の表題にしか出てこないので、その人物像は、本書からしか知り得ない。

今日広く認められている見解では、本書が書かれたのは、早くてヨシヤ王の治世の終わり頃で、遅くて前598年のユダの最初の捕囚の時期であるとされている。そうであるなら、ハバククはエレミヤと同時代を生きた預言者ということになる。

紀元前8-7世紀は、アッシリア帝国が強大な勢力を有し、ユダ、イスラエルをはじめエジプトもその支配下においていた。しかし、アッシュール・バニパルの時代に、新興の勢力、カルデア人の指導者ナボポラッサル(前625-605年)が先ずバビロンを取り(前625年)、メディアと組んでアッシリアの首都ニネベを陥落(前612年)させた。これは、ヨシア王が治めていた時代(前640-609年)の出来事である。ユダはヨシア王の下でアッシリアの支配から自立を遂げ、その宗教改革と共に復興政策の道を邁進していた。しかし、前609年、メギドの戦いでヨシア王が戦死し、戦いに敗北してユダの希望は瓦解した。エジプト王ネコ2世(前609-594年)は、ユダをその主権下に置いた。ユダの新王ヨアハズは廃位させられ、捕らえられてエジプトに連行され、そこで死んだ。エジプト王によって王位に就けられたのは彼の兄弟ヨヤキム(前608-598年)であった。彼はエレミヤによって厳しく糾弾される専制君主であった。しかし、ヨヤキムはその治世の始めに直ちに法外な賠償金をエジプトに支払わねばならなかった(列王下23:31以下)。前605年にエジプトとバビロニアとの間で戦われたカルケミシュの戦いの後、パレスチナの支配権がエジプトからバビロニアに移ったことを知ったヨヤキムは3年に亙りバビロニアのネブカドネザル(前604-562年)に朝貢する。しかし、その後彼は背いた。ユダのバビロニアの支配権からの離脱の試みは、前597年におけるエルサレムに対する最初の裁きを招来するものとなった(列王下24:1以下)。

ハバククは、このような時代を生きた預言者であると考えられる。彼は祭儀預言者の一人であったと推測する注解者もいる。たとえそうであったとしても彼は真正な預言者の一人であったと思われる。多分、ハバククはヨシヤ王の国家体制の崩壊を通して、諸国民の歴史における神の正義への問いに目覚めさせられ、これが彼の心を捉えたと思われる。ハバククは同時代人の預言者エレミヤと同じように、バビロニア人に覇権をもたらした世界の歴史の進行の中に、神の御業を認識した。エレミヤは、その事実を信仰の目で見、その支配に服すことを王や指導者に説いた。しかし、ハバククは、この様な認識に満足しなかった。かといって、その認識を彼の民に悔い改めを奨める説教を語り教育的に活用することに腐心することもしなかった。ハバククは、神とその道具たるカルデア人を責め立てた。何故ハバククはその様に行動したのか。それは、カルデア人が神の道具だというのに、その振る舞いは諸国民よりも良くないし、その不正と高慢は、神の神聖さにそぐわないからであった。彼の疑問、神への問いの「解決」は、彼の民を救済する神によって世界強国が否定されるという終末論的光において与えられた。このようなハバククの見方は、当然、エレミヤとは異なる現実的な問題処理へ導くことになる。エレミヤとは異なり、ハバクク自身は、その見方を人々に奨める言葉を何も発してはいない。ハバククはナホムよりもエレミヤに近い時代を生きたがエレミヤが彼を自分の仲間として遇することはなかった。

②ハバクク書のメッセージとその意義

ハバククはヨブのように神に抗議し孤独に神と対話する預言者であった。

真剣に時代を生きる者は悲惨な現実を前にして懐疑を抱き、神の正義を問いそれを求めざるを得ない。ヨブ記6章やエレミヤ書12章と同じく、神にこの問題を突きつけるハバククは、ヘブライ人の信仰の要をわたしたちに教えているといえる。ハバククは主の前に正しく生きようとする者が何故虐げられて苦しむのか「いつまで」待つべきかと問い(1:2-3)、法と正しい裁きのない現状の訴えからはじめる(1:4)。ハバクク書のメッセージの頂点は2章3-4節である。

ハバククは、主のこの言葉によって救いを確信する。しかし、ハバククは現状の変化を見たわけではない。ハバククはヨブと同じく自分の疑い悩みを通して、強い信仰の基礎を得た。完全に解決が実現しない中でも神の御業を待ち望み、その神の中に解決を確信し、安んじる道を見出す(2:20)のである。

ハバククはパウロの神学思想に多大の影響を与えた。特に2章4節の「神に従う人(義人)は信仰によって生きる」は、ローマ1:17、ガラテヤ3:11に引用され、ヘブライ10:38にも引用されている。神の義とキリストへの信仰による救いを、パウロはこの言葉を引用し強調している。パウロの神学思想の要とも言えるこの理解は、ハバクク書や創世記15章6節から得ている。

2-4節に見られる預言者の悲痛な叫び声は、ユダに加えられた新バビロニアによる攻撃(前598年)の痛手が背景にあったかもしれない。神の慈しみと律法による繁栄を教える改革を実行したヨシヤ王はメギドの戦いで戦死して(前609年)既に久しく、国内は荒廃し、不正がはびこっていた。無法地帯化した現状を前にして、ハバククは、神が必ず変えてくださるという信仰を持って祈っていた。しかし、その日は彼が期待したように直ちに訪れることはなかった。「いつまで」という言葉の中に、辛抱強く祈っているものの祈りが実現しないことに対する苛立ちの心が見えてくる。ここで祈っているのは、預言者個人であって、共同体ではない。しかし、その困窮は時代の民や諸国民の困窮でもあった。それらの困窮の現状を見て、預言者自身の内的な困窮が一層燃え上がるのを感じて祈っているのである。

パレスチナ周辺地域をその支配下に治めようとしていた大国新バビロニアは、諸国民の権利を残虐なまでに無視し、あらゆるものを自己の支配目的に従属させていた。それは、預言者にとっても彼が属している同胞の民にとっても望ましいことで勿論なかった。しかし、預言者の目から見て最悪と思えたのは、神がその事態を長く黙認しておられるとしか思えない現実であった。ハバククにとって、神が正義の源泉であり、守護者であること、さらに諸国民の生活においても公正を望んでおられるということは、信仰上の至上の命題であり、前提であったからであったからである。神の黙認は、神の神聖さに反する不正義としか考えられなかった。

それゆえ、ハバククは「いつまで」「どうして」と神に抗議する。ハバククは詩編の詩人のように(詩編13:2,74:9,79:5,89:47)「いつまで・・・ですか」と神に問うている。しかし、ハバククは、その事態に対する自らの疑問を「どうして」という問いからはじめるのではなく、「いつまで」という問いからはじめている。そこに彼のゆるぎない信仰が見られる。ハバククはこの事態に納得しなくとも、瞬時も、神の力、救済の可能性を疑ってはいないからである。

ハバククは預言者として民に向かって語らず、ひたすら神と対話し、神に抗議している。キリスト者の良心は、はびこる世の不正の前に痛む。その現実に巻き込まれ、苦悩を味わう。暴虐と不正と争いの日々を苦々しく思う。そういう現実を前に、無神論者は、こういう現実こそ、神がいない証拠だといって、「お前の神はどこにいる」(詩編42:4)といって嘲笑う。キリスト者は、その声に一層悲しい思いにさせられる。神に選ばれた同胞の民も神なきもののように行動するのを見て、預言者は一層孤独な思いにさせられる。この問題について真剣に語り合える者のいない現実が、預言者を一層孤独にした。それゆえハバククは民に向かって語らず、ただ神とのみ対話する。神に訴え、抗議する。しかし、その抗議はどこまでも、神への信仰をもってなされている。主よ「いつまで」という祈りは、いつか神によって「終わり」がもたらされるという信仰をもってなされている。「いつまで」「どうして」という主への叫び、嘆きは、極めて信仰的な祈りである。

しかし、主はハバククの祈りにいつまでたっても答えようとされなかった。そのために、「お前の神はどこにいる」という無神論者の声、異教徒の非難、信仰を失った民の声を耳にしなければならない二重苦を預言者は味あわねばならなかった。しかし、神は、ご自分に属する者たちが苦しむ時、自らも苦しまれる方である。地上で正義が踏みにじられる時に、神は傍観しておられたわけではない。ハバククはそのような神を信じて疑わなかった。

だから彼は、神に向かって辛抱強く祈ることを止めなかったのである。神は、その声に耳を傾けず、弟アベルを殺して白を切るカインに向かって、「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」といわれる方である。神は、ご自分に属する者の苦しみの叫び声を知って、その苦しみを自らのこととして苦しまれる方である。

主は不法がはびこる時代に預言者ハバククを時代の良心として「残りの者」とされたのである。神はハバククの苦悩を通して、その苦悩を自らの苦悩として引き受けておられるのである。その信仰の祈りは直ちに答えられなくても、答えられる、そのことをハバククの祈りを通して、世々の教会は学ばねばならない。

ハバククの見た一番ショッキングな出来事は、外国の侵略者の不正ではない。主の民の中で行われている不正であった。主の律法は全く顧みられず、それに基づく正義は行われなくなってしまっていた。主を信じない神に逆らう者が、主を信じる正しき者を取り囲み、やくざが取り囲んで無心するように、裁判で正義が示さても、その判決を捻じ曲げ無意味化する行動をとっている現実があった。正義が捻じ曲げられるこの現実は、主の民の中に起こっていた。ハバククはこの不正義の現実を神に訴え、「いつまで」「どうして」と苦悶し続けているのである。

ついに神の答えがこの後与えられる。しかしそれも、彼が期待したようになされるわけでない。そこにまた新たな彼の苦悩が始まり、そこから更に深い信仰の祈りをなすものとされるようハバククは導かれる。だが、その導きを受ける者は、それと気づかないところに苦悩は続くのである。

旧約聖書講解